第8話 記憶

 記憶は美化される。


 それは当然のことであって、その方が都合がいいのだろう。人間の記憶力では、過去のことをすべて詳細に覚えていることはできない。何気なく見ていた景色の端まで完璧に記憶することはできない。映像記憶能力なんかを持っている人もいるようだけれど、一般的には、少なくとも私はそんなことはできない。だから自分の想像が入り込んでしまう。いい思い出はよりいい思い出に、なんてことない記憶でさえ、かけがえないものへと改変してしまう。


 けれども逆はそうはいかないようで、辛い記憶はとことん鮮明に脳裏に焼き付く。人間は嫌なことを簡単に忘れることはできない。二度と同じ失敗を繰り返さないために、自らの意思に関係なく、脳が勝手に、徹底的に反芻させる。改変を許さず、平等に現実を突き付けてくる。


 それなら辛い記憶は一生付き合っていかなければならない?


 否。簡単に忘れることができないだけで、人間は確かに忘れることができる。


 忘れることで辛い記憶を今の自分と切り離す。

 忘れることで過去の自分に、あるいは別の自分に責任を押し付ける。


 出来事そのものを忘れることはできなくても、そのとき受けた心の痛みを人間は忘れることができる。鮮明に思い出すことはできなくなる。そうすることで人間は前に進んでいく。


 私は前に進むために、辛い記憶を封じ込めていた。

 その記憶の扉が今、開こうとしている。


――――――――――


「なんで私はゆきとの記憶を、あいとの記憶だと勘違いしていたの……?」


 記憶の齟齬に気づいた私は酷く狼狽した。高校1年生の夏休み、たった一ヶ月前の、ゆきと共に過ごした日のことを、私は何も正しく覚えていなかった。


 私の中であいを構成しているパーツが、ゆきを構成するパーツへと置き換わっていく。あいの存在が、私の記憶から失われていく。そのことがとても恐ろしかった。


 考えることをやめるべきだった。到底受け入れられない現実に対して、私は逃避するべきだった。けれど私はあいの存在を肯定しようとした。より以前の記憶のことを考えてしまった。


 記憶を辿っていけばいくほど、ゆきの記憶ばかりが思い出されていく。そしてそれはすべてあいとの思い出だと思っていたもの。まるで雪崩のように崩れて置き換わっていく記憶に私はどうすることもできなかった。ただただ、あいの存在証明が失われていくことに恐怖を感じることしかできなかった。


 ふと顔をあげるとのぞみさんと目が合った。けれど私はすぐさま下を向いてしまった。自分が今どんな顔をしているか、どんな気持ちで人と向き合えばいいかわからなかった。今すぐにこの場から逃げ出してしまいたい。そう思って席を立とうとした。


「ちょっと出掛けよっか」


 突然、のぞみさんは私の手をとってそう言った。


 そのままのぞみさんは私のことを軽く引っ張りながら、外へと向かう。私はされるがままに拙い足取りのまま外に出た。


「ど、どこに行くんですか……?」


「内緒。行ってからのお楽しみ。まあつく前にわかっちゃうと思うけどね」


そんな風にはぐらかして、のぞみさんは私の手を離し、階段を上り始めた。

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