第4話 午後6時、公園にて

 スマホからアラームが鳴り響く。目覚まし時計のような煩わしい音に、少しだけ眠くなっていた私の意識は覚醒した。のぞみさんはアラームを止めて「6時になったね」とつぶやく。空は暗く濁っていて、2週間前のあの日と同じような天気だった。


「これから何かするんですか?」


 寝ぼけまなこを擦って、私はのぞみさんに質問する。のぞみさんはベンチから立ちあがって、柵の近くまで歩いていた。私はそれについていくように立ち上がる。木の陰から出ると、頬に微かな雨を感じる。気づかないうちに雨は降り出していたようだ。


「何か思い出すことはない?ここであいちゃんを思い出すきっかけがあったと思うんだけど」


 のぞみさんは柵に体を預けて、街を見下ろしている。私は花壇を挟んで、柵から少し離れたところで立ち止まる。


「……思い出したことじゃないんですけど……私、あの日なんでここにいたのかわからないんです」


「二週間前の記憶が無いの?」


 私は「はい」とうなずく。あいのことを思い出したとき、正確には何か記憶に違和感を覚えたとき、私はこの公園に一人だった。次の日になってその違和感は相の存在だったと気づいたけど……ともかくそのとき、学校のカバンも、雨予報だったのに傘も持っていなかった。ちょうどこの柵の近くで……。


 そうだ、私は空を見ていた。


 曇っていたから何も見えないはずだったのに、私は空を見上げていた。あのとき私はなんで空を見ていた?いや、何を見ようとしていた?


 私は柵に近づいて、そのときの状況を再現しようと試みる。鼓動が速くなっているのを感じる。そのときドクン、と心臓が跳ねるような感覚がした。瞬間、私の頭の中に情景が流れ込んできた。


 空を見上げている。星は曇っていて見えない。

 否、視界全体がぼやけていて、何も見ていないし、何も見えていない。


『……』


何か聞こえる。これは私の声だ。ここに立っているのは私だ。けれどうまく発音できていないみたいで、何を言っているかわからない。


『……こに…………の?』


それでも最後に一つだけ鮮明に聞こえた言葉があった。


『……ゆき』


その瞬間、私の中で何かが崩れる感覚がした。


「……っ…、こころさんっ!」


 強く肩を揺さぶられて目を開ける。のぞみさんが私の肩を掴んで、心配そうな顔をこちらに向けていた。


「大丈夫……?」


「はい、だいじょうっ……」


 少しうわずった自分の声で、泣いていることに気が付いた。誤魔化すようにすぐに涙を拭って取り繕う。けれど涙は溢れて止まらなかった。今見たのは過去の私だ。そのときの感情を今の私も受け止めてしまっている。あのときの自分の悲しみが、悔しさが、その感情だけが鮮明に流れ込んできてしまって、それを受け止めきれなかった。のぞみさんはそんな私を、泣き止むまで抱き締めてくれた。


 私が落ち着きを取り戻してから、木の下のベンチに座った。小雨程度ならこれでしのぐことができる。私が声を出すまで、のぞみさんは何も聞いてこなかった。


「あの……私見たんです。過去の自分を」


「それって……」


あいを思い出した日のことだと思います」


 その言葉にのぞみさんは「やっぱり、場所の記憶を……」とつぶやいた。「それなんですか?」と聞くと、のぞみさんは「ごめん」と謝りながら説明をしてくれた。


 場所の記憶。過去と同じ状況を作り出すことで、その過去を体験することができるものらしい。感覚的には『ど忘れしたとき、元の場所にもどって考えると思い出しやすい』みたいなことらしい。ただ、もし体験する記憶が痛みを伴う場合、その痛みすらも再現してしまうらしく、とても危険なんだとか。もし流れ込んできたのが感情だけじゃなかったら、私も大変なことになっていたかもしれない。


こころさんを危険に晒すつもりは無かったんだけど、このことは先に話しておくべきだった。ごめん」


「大丈夫です。ほら、今の私は何ともないです。思い出せたこともありますし、気にしないでください」


「ほんと、無事でよかった。ほんとは私がその役をやるつもりだったんだけどね」


のぞみさんは少し落ち込んでいるようだった。心配をかけさせちゃいけないと、私は話を進める。


「『ゆき』って言ってたんです。過去の私は。多分、というか絶対、誰かの名前だと思うんですけど」


「友達とか知り合いに『ゆき』って子はいないの?」


「それが……全然思い出せなくて。でもその言葉だけは、はっきりと聞こえて……」


「その子のことがわかれば、何かわかるかもしれないわね」


 なんであいがいなくなったか、「ゆき」はいったい誰なのか。わからないことが増えていく。何かを思い出しても、変わりに別の問題に行き当たる。


 過去の私は泣いていた。それはきっと「ゆき」が大切な人だったからだろう。でも今の私はそれを覚えていない。そんな自分が酷く恐ろしかった。


「今日はもう帰りましょう」


 そういってのぞみさんはベンチから立ち上がった。連絡先だけ交換して、私たちは帰路につく。雨に濡れないようにと、のぞみさんが近くのコンビニでビニール傘を買ってくれた。のぞみさんは帰り際、ずっと何かを考えこんでいた。


 家につく頃には土砂降りの雨が降っていた。雨に濡れて冷えた体を、お風呂でゆっくりと温める。湯舟に浸かっていると、少しだけ落ち着くことができた。それでも眠りにつく直前まで、言いようのないグルグルとした感覚が、胸の中心あたりにずっと残って消えなかった。

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