第3話 町を目指して

 すっかり日が落ちた森はフィンが想像していたよりもずっと不気味なものだった。

 夜目が利くレオと違い、闇に眼が慣れても昼間のように見える訳でもなく、どこかで草木が揺れる音やフクロウの鳴声、鳥の羽音、自身が踏んだ小枝の音さえ不気味に聞こえる。


 彼此かれこれ小一時間は歩いているが一向に森の出口は見えて来ない。

 軽快な足取りのレオとは対照的にフィンは時折小石や苔に足を取られて転びそうになるせいもあるが周囲の雰囲気に気圧けおされて歩みが遅い。

 何度も「待ってぇ」とレオの足を止めるので振り返るレオの表情は徐々にうんざりしたものになる。

 挙句溜息まで深くなった頃、フィンはその場に座り込んでしまった。


「ちょっとだけ休もう? ね?」

「おいっ。こんなところで座り込んでたらまた狼が来るぞ。さっさと森を抜けないと……」

 言いかけてレオはフィンのスカートから覗く膝に気づいた。

 何度か転んだせいで怪我をしている。

 手にも擦り傷ができていた。

 出会った時から汚れていたがさらに小汚くなっているフィンにレオも仕方なく傍に歩み寄って座った。


「魔法でさっさと治せよ。それとも自分の怪我は治せないのかよ?」

 視線で膝を示され、フィンはえへへ、と笑った。

「使おうと思ったら使えないみたい。心で強く思ったら勝手に魔法が使えるんだけど……全部忘れちゃった」

 えへへと再度笑うフィンに「使えねぇな」とレオが吐き捨てると「ごめんねぇ」とフィンは項垂うなだれた。


 その直後、周囲で何かの息遣いを感じ、レオの耳がピンと立つ。

 同時に身を低くして周囲を伺う。

 草叢くさむらの向こうに感じる気配は複数。

 警戒態勢になったレオにフィンも立ち上がろうとするのを「シッ」とレオが小声で止める。

「レオ……」

 不安になったフィンはレオの名を呼び、抱きしめようと手を伸ばすとレオの体が青く光り、それが収まると黒豹の姿に変わっていた。


「背中に乗れっ」

 元に戻れたことを喜ぶかと思ったが緊迫した声音にフィンが急いでレオの背によじ登ろうと手を掛ける。

間怠まだるっこしいっ」

 苛立った声でレオはフィンの襟元をくわえて背中にぶん投げるようにして乗せると「落ちるなよっ」と言って地面を蹴った。

 フィンは慌てて磁石のようにピタリと背にくっつくようにして首に手を回してしがみつくとレオは加速し始める。

 大きく上下に、そして足場の悪い森の中を木々の枝などを避けて左右に揺れながら疾走するレオの背中は馬とは違って乗り心地は良いとは言えない。

 だが不思議と振り落とされることなくあっという間に森を抜け、平原の道へと出た。


 と同時にレオの走りも徐々に減速し、体が縮み始めたかと思うと猫の姿に戻ってしまった。

 それは一瞬の出来事でフィンはその場に尻餅をつく羽目になり、お尻を擦りながらゆっくり立ち上がるとレオが「あー、またかよっ」と地団太を踏むように苛立った声を上げる。


 フィンは元来た森の方を振り返り、次いで空を仰いだ。

 半月が浮かんでおり、満月ほどの明るさはないものの柔らかな光に安堵する。

 空腹で長時間歩いて眠っていなくて疲れている筈なのに月を見上げた瞬間、それらが吹き飛ぶような感覚があった。


「おい、歩けるか?」

 見上げて来るレオにフィンが「うんっ」と笑顔で返すと視線が膝に移動する。

 それでフィンは膝を怪我していたことを思い出した。

 忘れていた痛みが僅かに鈍く感じられる。

「大丈夫だよ。レオもいっぱい走ったから疲れてない?」

「あの程度でオレ様が疲れる訳ないだろ。あのまま走れてたら朝までに町に着いてたのにな」

「そうだね。びゅーんって速かったもんね」

 フィンが目を輝かせて言うとレオは得意そうにフフンと胸を張った。


「町まであとどれくらいかなぁ?」

「すぐだよ、すぐ。もうちょっと歩いたら見えて来るんじゃないか?」

 レオのその言葉でフィンは元気よく歩き出したのだが。


 二人が町に辿り着いたのは太陽が真上に上がろうかという頃だった。

 最初はレオに「どうして猫になったの?」とか「どこから来たの? おうちはどこにあるの?」などといろいろ話しかけていたフィンだったが途中から忘れていた空腹と眠気と疲れが一気に襲い掛かり、何度か座り込んで休みながらの道中となったため、思いの外時間がかかった。


 辿り着いた町で二人は真っ先に宿を探し歩いた。

 空腹と眠気と疲れを一度に解決できるのは宿だ。

 それほど大きくはない町だったが人通りが多く、活気に満ちていた。

 記憶を失って初めてのたくさんの人が行き交う町並にフィンは周囲を物珍しそうにきょろきょろと見回し、歩みはさらに遅くなっていた。


「だぁかぁらぁ! さっきから何度も言ってるだろっ」

 その耳に一際大きな声がし、その方向を見やると僅かに人集ひとだかりができていた。

 何だろう? とフィンが近づくとどうやら宿の入口で受付の男と客と思しき男女が言い争っているようだ。

「金は払えねぇが代わりにこの上等な猪一頭で一泊させてくれって話だよ」

 客の男がわめくと受付の男が困ったような苛立ったような声音で「ですから」と口を開く。

「こちらも再三申し上げている通り商売ですから幾ら上等でも金を払って貰わないと……」


 そこが探していた宿だと気づいたフィンはレオを抱き上げて近づくと宿の従業員と思しき別の男が「おい、ビビが来たぞ」と声を上げた。

 すると言い争っていた三人を含むその場の全員がフィンに注目し、ざわめき始める。

 その様子にフィンは周囲の大人達を見回す。

 どの人も憐れむような表情でフィンを見下ろし、ひそひそと何か話している。


「ルウ! 良かった、探してたんだぞ」

 そこに先程の客の男の声が響いた。

 見ると満面の笑顔で両手を大きく広げている。

 隣にいた女もフィンに笑顔で駆け寄って来た。

 遠目では大人に見えた二人はまだ子供だった。

 歳はフィンより少し上に見える。


「どこに行ってたの? 心配したわ」

 見覚えのない二人に突然話しかけられ、フィンが戸惑っていると「お知り合いですか?」と宿の男が怪訝そうに訊いて来た。

「そうなの。私の妹なんです」と女の方がフィンの肩を抱き寄せて答える。

 私のこと知ってるの? とフィンが訊こうとするがフィンが口を開くより早く「妹が見ての通りのビビなんで俺達も……」と男が受付の男に笑みかけた。

「……分かりました。空きがないので三人一部屋になりますが」

「ああ、勿論構わないぜ」

「ビビがいるんなら猪の話よりそちらをおっしゃってくだされば……」

「それがさ、ちょっと目を離した隙に迷子になってさ。本人が一緒にいないと信じてもらえないと思ったから仕方なく猪の話を持ち出しただけで」

「そうでしたか。ですがベッドを使う前に先にお風呂に入れてくださいよ。幾らビビでもあれじゃちょっと……」

 顔をしかめる受付に客の男は「分かってますって」と愛想の良い笑みを浮かべた。


 フィンは自分のことを知ってる人に会えたかもしれないと期待に胸を膨らませ、レオは馴れ馴れしい二人組に嫌悪感を抱いた。

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