第Ⅰ話———猫の瞳
―――カルデラ湖 湖畔
月が輝き、星々が煌めく夜。
その湖の湖畔にはのんびりと歩く小さな人影がいた。
人影、そうは云うものの正確には人というよりは人型の影と言えよう。何故ならば、その影からは人には無い筈の細い一本の影と三角形の小さな影が付いており、その形に当てはまるのはどちらかといえば獣だろうか。
一陣の風が吹く。
人影は大きく靡く外套を手で押さえると細い影を身体に巻き付ける。
流れた雲の間から月が顔を覗かせれば柔らかな月光がその身体を隠していた闇を洗い流す。
輪郭が露となった元人影は頭をすっぽりと覆うように深くフードを被り、身体を隠す外套から伸びる下半身はハーフパンツに素肌を晒した脚、白い肌とは対照的な黒い厚底ブーツを履いていた。
月を見上げようと顔を上げれば再び風が吹いた。
先程よりも強い風は―――彼を被っていた砦を簡単に攫っていく。
突風に巻き上げられた外套は前が大きく開き、フードは外れ、隠されていた白毛の髪が零れる。風の余韻に遊ばれる光を弾く髪を押さえながら彼は確かにその双眸で空に浮かぶ二つの月を見て艶やかな唇を喜々として歪ませる。
「―――ついに、」
「遂に来ましたか。ここからは僕ら、いえ……我々のターンですね」
月光に照らされた頭頂部で三角形の耳が跳ねる。
少年特有の声で発せられたその言葉にどんな感情が込められているのかは知らない。知るわけがない。けれど、何処か楽し気な期待を込めた笑みだった事は確かだろう。
少年の耳元を風の音が吹き抜ける。
「―――。」
「了解です。それじゃあ、僕は自分の仕事をしてきますね」
そう呟いた少年はフードを被り直して外套を正すと森の中へと消えた。
※
―――カルデラ湖 上空
あれからどのくらいの時間がたっただろうか。
一刻だろうか。
それとも一瞬か。
はたまた刹那だろうか。
あの水のような地面に沈められ、意識を手放した瞬間から時間も空間も、果てには自己の認識も曖昧になった。けれど、同時に不思議な安心感も得ていた。理由は分からない。だが、まるで母親の腕に抱かれているような、夢見心地と云うべき微睡む感覚に包まれていたのだ。
意識が徐々に溶けていく。
先程目覚めたばかりの意識が再び闇に沈もうとしたその時、
「………?」
身体の輪郭をなぞるように風が流れる。
否―――風を切っているのだ。
そう認識すれば身体を打つ風は次第に強くなっていく。
「―――グッ!な、なんだ⁉」
ガツンと響く拳のような風の塊が顔面を強打した。打ち付ける風に悪戦苦闘しつつも瞬きを繰り返し、目蓋を開ければ黒に馴染んでいた視界に差し込まれた強烈な彩りに混乱する。
そして驚愕のあまりに目を見開いて世界の全容を見た。
「オイ―――」
そこは見知らぬ世界だった。
視界を埋め尽くす程に広い地平線。
遥か彼方に微かに見える水の影。
遠方に捉えた天蓋に覆われた都市。
眼下に見える湖や幾つもの浮島。
どれもが記憶に無い光景であり、どれもが現実とは懸け離れた風景。
あの人物が言っていた異界〝ロゴス〟。そこは所謂―――異世界とも言うべき世界であった。
「――――オイオイ、オイ!!情報量を考えろ!!何処だココ!そしてパラシュート無しでこの高さから自由落下とか冗談にもならねェぞ⁉」
全身を包む風の感覚に思わず現実逃避をする。
―――なるほど、これがスカイダイビング。この恐怖心の錯覚と言えなくもない爽快感に拭いきれない緊張感、癖になる人がいるってのも納得だな。
―――でも、人類で初めてコレをした奴はキチガイだな。
現状とは全く関係無い思考をそこで切る。
意識の覚醒と共に情報の洪水を浴びせらたのだから多少の現実逃避くらい許されるだろう。
―――てか、このままだと死ぬよな?
刻一刻と変化する地面との距離は目測では大体、約3000m程。
眼下には先程見た巨大な湖が広がっているものの着水したとしてもこの高度からであればコンクリートに衝突するのと大差は無い。ミスればミンチ、良くて肉塊に大変身といったところだろうか。
「流石にアイツをぶん殴る前に死ぬのは御免だぜ」
そう呟くものの現状に変化は無い。
現状は変わらず絶望的だ。
「あァ―――、クソッ!こんな事になるんだったらアイツの脚を掴んで道連れにでもすればよかったぜ……」
この緊急事態に於いてこんな事を呟いてられる自信が何処から湧いてくるのだろうか。
それは、傲慢とも取れる自信からだった。
漠然とした幼少からの夢。それは―――、
―――〝星へ至る〟こと。
何時から抱いた夢かは既に分からない。
もしかしたら自身の〝異能〟が目覚めた時かもしれないし、いつか見たドキュメンタリーの星間航行の様子かもしれない。既に願望を通り過ぎて本能にまで刻まれた不変の思い。それを現実にする為に特訓も、訓練もしてきたのだから多少の自信くらいは付く。
「つっても、手加減はあまり得意じゃないんだがな……」
意識を思考から身体へ、奥底に眠る〝異能〟へと切り替える。
心臓から湧き上がる熱量が鼓動に乗って全身へ奔る。鼓膜の側で鼓動が鳴り、次第に周囲の空気が熱せられ身体の表層からは陽炎が浮かび、空気の温度上昇が規定値を越えると陽炎は光を放つプラズマへと姿を変える。
「―――こんなもんか」
その変化は何も周囲の環境だけに止まらない。風に煽られた髪の先は炎のように揺らぎながら尾を引き、頭髪の一部には青色が混ざり前頭部にはメッシュが入る。その身に纏う炎と墜ちる様子は遠目にみれば彗星と見間違うよう。
彼は身体のから溢れる炎を右手に集めると真下へと放り投げた。
「緩衝材の代わりにはなるだろ」
空中で停止した炎にとび込む。
炎は十層に分割されており、轟々と燃える炎の膜を通過し―――ボチャン。と、低い水柱と共に無事着水に成功。
頭上の炎は霧散し、身体から溢れていた炎は湖に消火され、彼が落ちた場所からは白い湯気が立ち昇っていた。そして、次第に湖底から水泡が浮き上がり、水面に顔を出す。
「ブハッ!う゛っ……ゴホッ、ゴホッ……勢いを殺すこと以外何も考えてなかったわ……」
気管支に入り込んだ水を吐き出して岸辺へ泳ぐ。
上陸した彼はゴミを払うように服を軽く撫で付けて乾かす。
「それで、ここは何処なんだ……?」
辺りを見回して呟く。
周囲は木々で囲まれており、湖の外へと続く道は見あたらない。完全な秘境、と云うには些か綺麗に整えられた湖畔は人の手が入っている事が分かるくらいで痕跡のようなものは目に付かず、人手が入っていたとしても定期的な清掃や剪定くらいなものなのだろうと伺える。
近場の手頃な岩に腰掛けた彼は独り言を呟き始める。
「勝手に招待されるわ、頭を踏まれるわ、地面に沈められたと思えば空に放り投げられて湖に落ちるわ……散々な目にしか遭ってねぇじゃねェか」
「それに?今度はヒトを勝手に招待とかナントカ言っておきながら案内役の一人も寄越さずに何処とも知れない場所に置き去りとか巫山戯過ぎだろ」
「森から出られなきゃ最悪でも餓死ルート一直線だぜ?」
「随分と手の込んだ殺害方法だなァ、オイ」
「なぁ、アンタも―――そう思わないか?」
彼は顔を上げ、その言葉を木々の間へ視線に乗せて射る。
そこは一見して何の変哲もない森であり、誰かが隠れ潜み、聞き耳を立てている様子など微塵もない。けれど、彼は視線を外す事なく口を開く。
「アンタが案内役かどうかは知らんが、隠れて様子見なんて悪趣味じゃねェか。―――今から十数えてやる。その間に出て来なけりゃ炙り出してやるからな」
彼は立ち上がり、手に炎を宿す。
「イーチ」
「ニーイ」
「サーン」
「シーィ」
「ゴー―――」
―――オ。そう言葉が続く筈だった。
ソレを見た瞬間に横に転がる様にして回避する。
軽い風切り音を携えて飛来した物体は木漏れ日を反射しながら通り過ぎ、大量の水飛沫を作りながら湖に着弾。飛んできたソレを見ていた彼はその光景を作り出した有り得ない程に高過ぎるボウガンの矢の威力に血の気が引き、口角を引き攣らせながら森を見据えた。
「冗談が通じない蛮族か何かか……?」
その呟きに応えるように今度は森の中から声が響く。
「蛮族とは失礼ですね。先程の貴方と比べたらよっぽど上品な文明人ですよ」
———ホラ、文明の利器も使ってますし。
そんな言葉を吐く暫定蛮族に視線を向ければ、木の上に外套を羽織った少年が立っていた。
外套を浮き上がらせながらも着地音は無く、軽やかに飛び降りたフードを目深に被る
少年はフードの奥から値踏みするような目線を彼へ向ける。
「上品な人間は普通、問答無用で仕掛けてこないと思うンだがな?」
「おや。貴方の常識に合わせたつもりだったのですが……」
「オイオイ、ちゃんと目付いてっか?」
「えぇ、ご心配には及びませんとも」
顎を軽く上げ、影から見える瞳が光る。
「ならそりゃあ節穴だな。交換した方がいいンじゃないか?」
「いえいえ、自慢ではありませんが僕の目はとても良いのです。むしろ、貴方の方が心配ですよ。鏡は持ってますか?」
「言うじゃねェか……。なら、確かめてみるか?俺が野蛮かどうか」
「そうですね。それもいいかもしれません―――ね!」
その言葉尻と同時に目の前の少年は懐から手のひらサイズの鏡を投擲する。
真っ直ぐに顔へと投げられたソレを叩き落とし、
「ァア?当て付けかこの―――ッ!」
そう言わんと視線を移せば、件の少年は一足飛びに距離を詰め彼の懐に滑り込んできたのだ。
「―――⁉」
「―――ガラ空きですよ?」
至近距離からの顔を狙った脚の蹴り上げ。
「―――甘ぇンだよ!!」
その急速に接近する脚を顔を仰け反らせて回避。
そして、片足立ちとなっている少年の脚を刈る。
支えの無くなった身体は重量のある頭を下にしようと重力が作用し、横転し始める。けれど、少年はそれに対して地に手を突き立てて身体を支え、身体を捻って蹴りを放つ。
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「グッッ!!?」
咄嗟に反応して脇腹を腕で庇い、身体の側部に力を入れる。だが、その無理な態勢から繰り出された蹴りは予想外に重く、ガードした身体を浮き上がらせて吹き飛ばす。
彼は態勢を崩されながらも受け身をとり、身体に降りかかる衝撃を軽減させた。
「いッつぅ……どんな馬鹿力だよ……」
立ち上がり、蹴りを受けた腕をダラリと垂らして少年を見る。
腕はその衝撃の強さを物語るように小刻みに震え、無事だった腕と比べても力が入っていない様子だった。
―――骨は折れてねェ……けど、ダメージはだいぶデカいな。
力を入れづらくなった腕に意識的に力を込めて感覚を取り戻す。
既に少年も態勢を立て直しており、既にこちらを見ていた。
「挨拶も無しに蹴りかかるなんてな。それがお前なりの上品ってやつか?品性疑うぜ」
「いいえ、違いますとも。貴方は確かめてみるか、と仰いましたでしょう?だから確かめただけのこと」
「へぇ……そうか。それで?お前のお眼鏡には適ったか聞きたいんだが?」
「まだ確かめ切れていませんので何とも言えませんが———」
少年は頭を覆い隠していたフードを取り払う。
「―――及第点は与えられそうで安心しました」
「そして、これまでのご無礼をお詫び申し上げます。
僕の名はエード、エード・シュディンガーレ。エードやエドとでも好きにお呼びください」
少年改め―――エードは名乗り上げると共に腰を低く下げて臨戦態勢へと移行する。
そしてその態勢のままエードは彼の目に視線を合わせて問う。
「………貴方の名もお聞かせく願えますか?」
「はぁ……俺の名前は天野篝。呼び方は何でもいいよ、好きに呼べ」
少しぶっきらぼうに、溜息を混ぜながらも相手に聞こえる声で名乗りを上げた彼はエードに応戦する為に構える。
「いい名前ですね」
「そうか?そんな事を言われたのは初めてだ」
「名は体を表すと言いますから。名付け親の方には感謝した方がいいですよ?」
「なら、帰れたら感謝の一つでも捧げてやるとするか」
「えぇ、そうした方が宜しいかと」
両者共に臨戦態勢を崩す事無く雑談に花を咲かせる。
その様子は初めて顔を合わせたとは思えない程に柔らかな雰囲気。これから拳を交えるかも知れない両者がこれ程までに心を開いている理由は分らない。
二人の間を一陣の風が通過する。
外套がはためき、髪は揺れ動く。
会話を重ね、会話を重ねる毎に弱っていく風に両者は口を閉ざして神経を研ぎ澄ませる。
外套は下がり、髪は動きを止め、風は頬を撫でるのみ。
やがてその風すらも姿を消し―――、
「いざ」
「尋常に」
―――完全な無風となる。
「「勝負ッ!!」」
示し合わせたように口を開いたエードと篝は同時に地を蹴り、距離を縮める。
「ハァァア―――ッ!」
「―――シィッ!」
エードは下段から、篝は上段からの攻め。
篝の脚は薄く発光し、エードは懐に隠した拳を繰り出す。
「―――フッ!」
拳の当たらない距離。だが、その拳には大きな違和感があった。
手の甲よりも袖口に近い位置から顔を覗かせる二口の大口径、と云うには些か大き過ぎる銃口。それを見た瞬間に逡巡し、後方に回避するのも懐に潜り込むのも危険だと察知しすると同時に横方向へ回避し、溜め、一蹴の間に接近し脇腹目掛けて蹴りを放つ。
腹に減り込んだ脚は、勢いのままに小さい身体にを打ち上げる。
「グッッ―――!!」
けれど、エードもタダでやられる気など更々無く、宙に浮かび上がったまま正確に篝へ照準を合わせて射出。射出されたのは銃弾、よりも頭の狂ったもの―――鉄針だ。直径30㎜全長500㎜の鉄の塊は一直線に篝目掛けて飛んでくる。
「なにッ⁉〝ソール〟ッ!!」
彼は驚愕に目を開き、咄嗟にその名を叫ぶ。
腕から炎が溢れ出し、横薙ぎに鉄針を振り払うと炎が視界を埋め尽くす。
―――チッ!これは悪手だ!
それに気付いた時には既に遅く、視界に広がった炎は確かに彼の身を守ったが同時にエードの姿を隠してしまい、後手に回らざる負えない状況を作り出してしまったのだ。
二発、足元に着弾した鉄針を捉えつつ、壁向こうから聞こえる風切り音に耳を傾け、炎の壁を突き破り差し迫る鉄針から顔を僅かに逸らし……、
―――これは、ワイヤー……?ハッ!つまりアレは―――!
躱した後にそれが攻撃目的の鉄針ではなく他の目的で放たれたアンカーボルトだと気付く。
背後に着弾したアンカーボルトの後方にはワイヤーが付けられており、深々と突き刺さった事を確かめるようににピンッと張り上げられ、巻き上げる駆動音が鳴り響く。
数瞬も間を置かずにエードが炎を突破して中空に躍り出し、篝に蹴りを放つ。
腕をクロスさせて防御するが、はじめに食らった蹴りと同様にその尋常ならざる脚力でもってして防御そのものを壊さんと蹴り飛ばされる。風景が回り、身体を地面に打ち付けること数回。全身を強打しながらも四肢に力を込めてブレーキを掛け、うつ伏せの体勢から上半身を上げて不格好な姿で―――駆けた。
一足飛びではない確かに一歩、また一歩と踏みしめて、エンジンが回転するように脚を動かす度に身体に熱が灯る。
―――あつい。暑い……途轍もなく、死んでしまいそうに熱い。
―――だけど、何故か力が湧いてくる。
身体を覆う陽炎に混ざるように蛍のような、小さな光の粒子が立ち昇る。
炎を宿した拳は極光の片鱗をみせ、力強く握り締めて彼は―――、
「これを―――」
「それは……⁉」
「―――食らえェェエッッ‼」
―――驚愕に染まるエードの頬を思いっ切り殴りつけた。
「―――ッッ⁉」
拳がクリーンヒットしたエードは防御に意識を向ける間もなく湖へと叩き込まれる。
盛大な水柱によって疑似的な雨が降り、篝は濡れた身体から蒸気を昇らせながら息を吐き、
「ふぅ……。オッシャッッ!仕返しだこのクソ猫!」
そう口汚い罵倒と共に湖に親指を下げたのだった。
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