第3話 芥子の花

 

 ナガミヒナゲシがアパートの駐車場に群生している。よくもまあ、砂利だらけのこんなところでと感心する。


 一つの実から千以上も取れるという種子が、西田さんのスイフト、片山さんのエヌボックス、沼田さんのハスラー、パルシステムやAmazonなどの宅配車、俺の自転車などの車輪に連れられて来たのかもしれない。単純に、風に乗ってここまで飛んで来たものもあるだろう。


 日本中のあちらこちらに群生するこの花は、可愛らしい姿とは裏腹に有毒物質を含んでいる。素手で触ろうものならかぶれてしまう恐れがある。ちなみに俺は幼い頃にかぶれ済みだ。ましてや口に入れるなんてとんでもない。そちらも、もちろん体験済みだ。近所に生えている雑草なら一通り食べてみようと試みたのだから、雑草に関する知識なら任せてほしい。


 ナガミヒナゲシの有毒成分は、人を死に至らしめるほどのものではないにしても、根から他の植物が育つのを抑制するような物質を出して、それらの植物の生育を抑え、自分の存在を拡大させていく。そういう侵略的な外来種なのだ。植物界で起きているこのような現象は、人間の世界にもしばしば起こる。まったく、どこの界隈も同じようなものだ。逃げ場はないな。


 ナガミヒナゲシに思いを巡らせている間に学校に着いた。叔父からもらったスニーカーはまだまだ成長過程にある中学生の足には些か大きすぎるものの、紐をきつめに結ってしまえば、履けなくはなかった。校庭での体育のことは、一先ず気にしないこととする。



 今週は個人面談週間のため、授業は午前中で終了した。当然のように俺の保護者はそこへやって来ない。中学一年の頃から、いや、遡っても小学三年生の頃からもう一切の学校行事に来ていない。それらの申し込み用紙自体、そもそも記入されることがないのだ。

 帰りの支度を整えていると、担任の大庭おおばから声をかけられた。



久住くずみくん。帰る前に職員室に寄れる? 十分……いや、五分程度でいいから」

「わかりました」

「ごめんね、帰ろうとしているところなのに。すぐ終わるから。じゃあ、先生は先に職員室に行っているから、荷物詰め終わったら来て」



 だいたいの察しは着いたので、俺は特に聞き返すこともなく担任の要求に応じた。今回もまた面談に来ない保護者と俺の生活について、何か聞きたいことでもあるのだろう。ひょっとしたら育児放棄を疑われているのかもしれない。


 叔父に買ってもらった通学リュックに荷物を乱暴に詰め込み、昇降口と同じ一階にある職員室に向かう。もうここの扉を開けることは何度目かわからないので、これといった緊張もしなくなった。困ることはと言えば、事務の職員たちが俺と担任の会話を盗み聞きすることくらいだ。


「失礼します」


 俺は大庭机へと歩を進めた。俺に気がついた大庭は肩の辺りまである艶やかな黒髪を耳に掛けると、引き出しから茶封筒を取り出す。


「久住くん、新年度きも渡したプリントなんだけどね。念のためもう一度お家の方に渡してくれる?」

「渡すのは構いませんけど、何ですか? これ」


 大庭は少し間を置いてから続けた。


「……就学援助の申請書。郊外活動費とかいろいろと振込がまだみたいなの。一年の時に深山みやま先生がお家の方にお電話したのだけれど、なかなか連絡つかなくて。この用紙で申請して、横浜市に受理されたら学校生活にかかる費用が何かと免除されるから、事情があるなら申請してみたら良いんじゃないかなって。あ、違うよ? 久住くんがお家の方にプリント渡してないとかそういうんじなくて……」



 昨年赴任したばかりの若い女教師は、生徒への気遣いと事務局からの圧力の間で上手い言葉を見出せず、言い訳がましく両手を横に振りながら話した。


「ありがとうございます。書いてくれるかは微妙ですが、一応父に渡します」

「ごめんね。書いてもらえたら、封筒に入れて先生に渡してね。そうしたら、先生から事務員さんに提出するから」

「はい」



 一礼すると俺は職員室を出た。そうだ。俺の家には小学生の頃から給食費の督促ハガキが毎月のように届き、担任から父親へ宿泊体験や修学旅行等のイベントごとに関する振込を確認する電話が頻繁にかかってきた。その電話を切る度に父は言った。


「こんなものはさ、僕たちの意思ではなくて学校側が決めたことなのだから、学校がお金を出すべきだと思うんだよね!」


 そんなことを口走る割に、それを申請するための用紙の存在は見て見ぬふりをする。

 父の言いたいことは、貧困家庭である我が家ならば、きちんと手順を踏んで申請すればおそらく実現する。しかし父親はそれをしない。頭は子どものまま年齢と性欲だけが成熟し、突然父親になってしまった父には書きたくても書けないのかもしれない。その『突然』からもう十四年経つわけだが、父は世間知らずを改めようともしなければ、市が負担してくれるであろう援助の手続きを踏もうとしない。いったい、父の心は何歳で育つことを辞めてしまったのだろう。


 父に保護者としての責任能力は備わっていない。何度も叔父の養子になりたいと何度願った。しかし叔父はいつか誰かと結婚をするかもしれない。その時、こんなに大きな連れ子がいたら相手はどう思うだろうか。拒絶されてしまうかもしれない。俺とて、叔父の結婚や諸々の障害になることは本意ではない。父親が頭脳は子どもである様子を見せつける度に、俺は喉まで迫り上がってきた言葉をグッと飲み込んだ。



「父さん」


 今でもスマホゲームに熱中している父が顔を上げる。


「おう、おかえり。お客さんからもらったじゃがりこがおやつボックスにあるよ」

「うん。ありがとう。あとこれ、学校から就学援助の用紙もらったから、書いて。今日、書いて」


 俺は大庭から受け取った封筒の中身を取り出し、さらにそれを汚さないようクリアファイルに入れて食卓の上に置いた。父親は再びスマホに視線を落とす。


「今、周回で忙しいんだよね。明日までに最終開放しないといけないキャラがいて」

「今じゃなくて今日書いてって言ってるんだけど」

「あー、でもなー。明日からイベント走らないといけないし。仕事終わって帰って、イベント走って忙しいから、書けないかな」


 これ以上言えば、この男の逆情スイッチを押してしまうことが俺には想像出来た。そうなってしまえば、元々成立していない会話は更にぐちゃぐちゃにかき混ぜられた何千ピースもあるパズルのように、復元が困難なものとなる。


 俺はもう用紙については諦めた。このまま凡ゆる学費を滞納したら、どうなるのだろう? 義務教育が義務じゃなくなる? 父親は逮捕? そうしたら俺は施設にでも入れてもらえるのかな。でも叔父さんが支払いをしてくれているこのスマホはどうなるのだろう。没収とかされるのかな? それはちょっと嫌だな。


 窓の外を見るとナガミヒナゲシの花たちがこちらを見ているような気がした。危険な外来種でありながら、花言葉は『慰め』『癒し』『平静』であることも俺は知っている。この危険な外来種であり、目玉のような形をした花々は、俺を慰めているのか、噂話のネタとして憐れんでいるのか、どちらなのだろうと思う。


 そんなことを考えていた直後、スマートフォンが短く震えた。画面をこちらに向けると、一軒のSNSの通知がポップアップされていた。


 

 



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しれもの文藝部 浦桐 創 @nam3_

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