しれもの文藝部

第2話 黒いノート

　スマートフォンの振動に俺は顔を強張らせた。また寝子とかいう奴から何か送られて来たのかもしれない。学年カラーである青ジャージのポケットに手を入れスマートフォンを取り出し、恐る恐るロックされた画面を自分の顔の方へ向ける。

「何だよもう……」

　画面を確認して、俺は気の抜けた声を出した。通知は寝子からのメッセージによるものではなく、近所に住む叔父からのLINEが届いたことを知らせるものであった。叔父が美味い美味いと言っていた、静岡県産のクラフトビールの写真アイコンがスタックに表示されている。

『大和（やまと）、学校終わった？　ちょっと家寄れる？』

　用件を先に述べない誘い方が少し気になった。内容によっては、俺は用事が元々あったことにして断ってしまいたい。三十秒悩んだ結果、俺は短く「何で？」とだけ返信した。

『断捨離してたら面白いものを見つけたから、渡したいんだけど』

　短文の返信の後に、「お願い！」と手を合わせるポーズをしたアニメのキャラのスタンプが送られてきた。

　見せたいものと言っても、どうせ昔の写真だとか本だとか、そんなところだろうと俺は考える。俺と叔父では感性がまるで違うので、叔父の面白い＝俺にとってはそんなに興味がないという可能性が非常に高い。しかし、「お願い！」と手を合わせているスタンプのキャラクターは俺の好きなアニメのヒロインだったので、やはり行くことにする。まあ、すぐ近くだし。

　「了解」とだけ返信をすると、自宅に戻り着替えを済ませた。叔父が以前、蒲郡で開催された音楽フェスで購入してきてくれたオフィシャルグッズのTシャツを一度頭から被ったものの、思い直してそれを脱いだ。だめだ、こんなものを着て行っては叔父を喜ばせてしまう。俺はguで買った何の柄もロゴもないビッグTシャツと、叔父のお下がりでもらったよく知らないアウトドアブランドのハーフパンツを履いた。結局片方は叔父のお下がりだが、ちょうど良い服がないのだから仕方がない。それに叔父だって、俺がこのパンツを何度も履いているところを見ているのだから、今更気にする事もあるまい。

　踵の擦れてきたメーカー不明のスニーカーを履き、変速ギアも付いていないような古い折りたたみ自転車に跨る。所々錆び付いてはいるが、ブレーキに問題はない。クレ５５６で適度にメンテナンスもしている。何ならこの自転車も、叔父のお下がりであった。

　俺の生活の何割かは、フロム叔父だ。決して叔父さん大好きっ子なわけではなくて、父親が頼りにならないから仕方がないのだ。祖父母はとっくの昔に亡くなり、親戚と呼べるような人間も叔父以外にはいない。しかも彼は俺の自宅から自転車で行ける距離に住んでいる。母親は……まあ、ちょっと「色々あって」との表現が適切かどうかは判らない程度に色々あって、浜松のグループホームで暮らしている。自然と頼るのは叔父一択になるのだ。

　家を出る際に「鍵は開けておくから入って」というメッセージをもらっていたので、俺はチャイムも鳴らさず叔父のアパートのドアを開ける。

「叔父さーん、入るよー」

　玄関先から一応声掛けだけはしておくと、廊下の向こうから返事があった。

「どうぞー。洗濯機の上にグレーのタオル置いてあるから、それ使って」

「はーい。お邪魔しまーす」

　洗面所で手を洗い、言われた通りにその横の洗濯機の上に置かれたタオルで手を拭いた。柔軟剤がフワッと香る。女子みたいな匂いだが、スチールのユニットシェルフに置かれている洗剤を見ると「ユニセックス」と書かれていた。もしかして、こういうところを気をつけられないから、俺は女子から嫌われるのだろうか。俺も同じものを帰りに買って帰ろうと思った。

　叔父の部屋は、散らかっているというのともまた違うのだけれど、書籍やCD、楽器、服、スニーカーコレクション等が至るところにひしめき合っているため、やや狭く感じる。心無しか、前回来た時よりも物が増えているようだ。断捨離をしていると言っていたはずだが、何故物が増えるのだろう。

　叔父はそれまで仕事をしていたであろうパソコンを閉じ、転がっていた小さめのビーズクッションを俺に手渡した。物が多い部屋に住んでいる割に、洋服はヨレていないし皺もない。ツーブロックの髪と鼻下と顎の髭はいつも通りの長さで保たれている。

「悪いね、急に呼びつけて」

「いいよ、どうせ暇だし。塾とか行ってないし」

　俺は叔父に勧められるままローテーブルの前に腰を下ろす。氷のたっぷり入ったアイスティーが目の前に置かれる。自転車を漕いで喉が渇いていた俺は、それを一気に飲み干した。叔父は向かいに座り、アイスコーヒーを飲んでいる。

「もしかして大和、塾行きたいの？　そんなに高くなかったら叔父さんが塾代出そうか？」

「いいよ、別に。そんなことより、見せたいものって何？」

　叔父の親切心からの申し出を無下に断ったことに少し心が痛んだが、当の本人はまるで気にしていないような素振りだったので、俺は少し安心した。思春期真っ只中の少年は、親戚という存在に対してと何かと気恥ずかしいと感じるものなのである。

「そうそう。見せたいものっていうのはこれね。押し入れ片付けてたら出てきたんだ。兄貴のものなのだけれど。何でここにあるんだろうね」

　叔父は一冊の黒いトラベラーズノートを差し出した。革が随分経年劣化しているように見えるが、大人はこれを「味がある」と呼ぶのだろうか。

　開いてみると父の汚い字でメモやら予定やらが綴られている。しばらくページを繰ると歌詞のようなものが現れた。お気に入りの曲から歌詞を写したというよりは、一部が横線で消されていたり思いついた表現らしきものが吹き出しで書き足されているところを見ると、どうやらオリジナルのもののようだった。バンドもやっていないのに、歌詞って。歌詞って！

　歌詞の中で父は存分にクズ男を演じきっている。女を泣かせまくっては「仕方ないね」と諦めている。実際に父がモテていたなんて話は聞いたこともなく、想像することすら難しい。これは自分が書いたわけではないが、それを書いた人物の息子である俺は、顔から火が出そうに恥ずかしかった。

「面白いでしょ？」

　叔父が悪戯っぽく笑う。

「ねえ、これクッソ恥ずいんですけど……。いつ頃のもの？」

「さあ。でも十年は経ってないんじゃない？　書かれている予定を見る限り。見ちゃ悪いとは思うんだけど、自分の家から出てきて本人いなかったら、見るじゃん？」

　叔父は頭の後ろで手を組み、さして申し訳ないとは思っていなさそうな口ぶりで言い訳をする。

「とりあえずこれは大和に預けるね。兄貴に返しておいてよ」

「いやいやいやいやいやいやいや。叔父さんから渡してよ。俺からこれを差し出されたら親父、ショックで倒れちゃうよ」

　俺は両手を顔の前で振って、断る。

「じゃあ返さなくても良いから、大和が持っていて」

「何で！？」

「彼女に見られたら困るし、兄貴のものだってわざわざ説明するのも、それはそれでちょっとね」

　ああ、なるほど。俺は仕方なくそのトラベラーズノートを受け取る。見られたら困る彼女もいなければ、特に客も来ない俺の部屋にしまっておいた方が安全かもしれない。帰ったらこの『黒の書』の封印場所を考えよう。

　玄関まで俺を見送りにきた叔父は、「ちょっと待ってて」とスニーカーコレクションの中から一つ、シンプルなものを取り出し、箱ごと俺に渡した。きっと踵の擦り減ったスニーカーを気の毒にでも思ったのだろう。

「これ、ほどんど履いていないから。よかったら使ってよ」

「ああ。ありがとう……」

　また叔父からのお下がりが一つ増えてしまった。しかしボロスニーカーを履いたまま登校していたのでは、より一層モテルートから外れてしまう。俺はありがたくそれを受け取りリュックに突っ込み、自転車に跨った。そして父の書いた痛々しい歌詞を頭の中から掻き消すかのように、痛々しくない人気バンドの曲を小声で歌いながら自転車を漕ぎ出した。