しれもの文藝部
浦桐 創
第1話 三十一文字の手紙
『はっけよいどすこいされて水の底濡れ衣も着てアイヘイトユー』
SNSにDMが届いた。怪文書かと思ったけれど、五七五七七のような気もする。それにしても、相撲の掛け声と水の底が自分の中では全く繋がらないところへのアイヘイトユー。意味が解らない。
差出人は『寝子@neco_1127_urm』。見たことも聞いた事もないアカウントだ。瞼の裏で女が恨めしそうな顔で水の底に沈んで行く。その水深は深く、放っておけば地球の裏側まで落ちて行ってしまいそうだった。女が水の奥底へ消えて完全に見えなくなるまでの数十秒だか数分だかを、瞼の裏劇場・六番スクリーンのN列中央の座席に押しつけられるように座らされて、俺は観ていた。そんな感覚があった。当然、俺は誰かを水の底に追いやってもいないし、自分が落ちたこともない。俺の想像力は逞しすぎるな。
五月。公園のブランコを囲むように設置された花壇の下に、無数のツツジが落ちている。これは誰か吸ったな。わかるよ、ツツジの蜜は地味に美味いんだ。小学生の頃によく吸った。美味かったことは覚えているけれど、どんな味だっけ? 味を思い出してみたかった俺は、ツツジを一輪むしり取って後ろ側を咥えようとするが、花壇から赤茶けた奇妙な虫が飛び出してきたので、驚いた拍子にそれを花壇の中に投げ入れてしまった。その様子を見ながらクラスメイトの
「紅にはそういうDM届いてないわけ?」
俺はコウをせっつく。
「今のところ来てないし、そういうスパム報告も見かけないかな。文末にさ、『プロフ見てね♡』とか、そういうの書いてなかったの?」
紅はスマートフォンをスクロールしながら、画面に目を落としたまま言う。俺は首を横に振った。
「書いていない。ビュー稼ぎとかエロ垢とか、そういうんじゃないと思う」
「じゃあ悪戯かな。〝
紅は相変わらずスマートフォンに目を落としながら、画面をスクロールし続けている。
「こんな奴知らないよ、誰だよ」
「知らないけど、例えば好きな女の子をやまちゃんに取られた人とか?」
紅が顔を上げてニヤニヤしながら俺の方を見る。
「ないないないない。取るだ取らないだの前に、俺、全然女子と話してないから」
俺は右の手のひらをパタパタと横に振りながら答えた。そもそも俺には誰かに好きだの何だの言われた経験もなければ、何なら女子からは席替えで隣になればわざとらしく机を離されたり、廊下ですれ違い様に大袈裟に避けられる始末だ。中学二年生の多感な時期に、女子から受けるこの仕打ちは結構きつい。俺は女子から見て、そんなに大袈裟に避けるほどに気持ち悪かったり臭かったりするのだろうか。鏡で見ても、「誰だこの爆イケな色男は!」とまでは言わずとも、自分がそこまで不細工だとも思っていない。
「そうだね、やまちゃんがモテてるところなんて見たことなかったわ。ごめんね?」
紅がわざとらしく眉尻を下げ、その美しい顔に憐みを浮かべる。ごめんねなどと一ミリも思っていないような表情に、少々腹が立った。
「俺が可哀想になるから、そういう顔やめて?」
俺もコウの表情を真似て返す。
「確かに。やまちゃんて地味だし、成績優秀でもスポーツ万能でもないし、これと言って恨み買う要素も特に見当たらないか」
何の悪気もないような顔であけすけに紅が言う。また少し腹が立った。
「スポーツ万能ではないって事に限っては、お前も一緒だろ」
「ははは。ごめんって」
紅はスポーツこそ苦手ではあるが、成績は俺なんかよりよほど優秀だ。陶器のような白い肌と薄いながらも整った顔立ちは、運動部の中心的男子ほどではないが一部のマニアックな女子たちを惹きつけるものがあるようだった。その肌には、思春期だというのにニキビひとつない。おまけに人当たりも良い。しかし、不思議と劣等感は抱かなかった。居心地が良かったのだ。ろくに人付き合いも出来ない俺と仲良くしてくれる、運動以外のことはそこそこに
「まあ、人なんて何がきっかけで怨念に発展するかなんて他人にはわからないからね。そういう場合、大抵本人が自覚していないことが殆どだよ」
紅は憐れみの表情を解き、今度は真顔で左手の中指でメガネをクイっと上げる。カッコいいとでも思っているのか、得意げに何か発言をする時には、決まってこの仕草をする。しかし残念ながらこの発言は、狭い公園に不自然に存在する、バネでゆらゆらと動くオレンジ色のカバの乗り物の上でされたものだった。カバの上でカッコつけてもギャグにしかならないが、生憎ここには笑ってくれるような心優しい人間はいない。
「誰かをどすこいで押し切って水の中に沈めた記憶なんて、全くないんだけどな」
俺はツツジの汁が着いた指先を、学校指定の紺色のジャージのズボンに擦るように拭き、ブランコの柵に腰掛けながら言うと、自分のスマホをポケットから取り出す。新しいメッセージが来ていないことを確認すると、再びポケットの中にスマートフォンをしまった。その時、紅が覗き込むように俺の背後を見た。
「やまちゃん、じっとして。背中に何か付いてる」
「えっ?」
「あららー。立派なバッタだわ、しかも親子の」
「え! まじ? 取って!」
赤い変な虫の次はバッタかよ。俺は虫が苦手だ。それなのに虫の方から俺に寄ってくるのは何故なのだろう。もっと虫が平気な奴のところに行ってくれたら良いのに。その辺りの空気を読むか、せめて「今から飛びますよ!」って予告してから出てきてほしい。
「ともかくさぁ、そんな奴はブロックだよ、ブロック」
バッタをそっと摘むように俺の背中から引き離しながら、紅が言う。
「でもブロックしたらこのDM読めなくなるんじゃないの?」
バッタの襲来に顔を引き攣らせたまま俺は答える。念の為、このメッセージを証拠として残しておきたかった。まあ、証拠として機能させる場面があればの話だけれど。
「ああ、そうか。スレッドは残ってもメッセージは読めないかも。それにしても寝子って誰だろうな。心当たりとか、全然ないの?」
俺は首を横に振った。
「もしまた続くようなら、親御さんにも相談したらどう?」
「それはない」
紅の提案は俺にとってはとても受け容れられたものではなかった。親に話すなんて無理無理。一番ない。
「そうか。誰か相談できる大人がいると良いんだけどね。先生にはSNSバレしたくないもんね」
「親と同等か、それ以上に無理。絶対言えない」
担任の大庭は嫌いではないが、SNSアカウントが知られることには抵抗がある。絶対に無理。いずれ黒歴史になるとわかっている俺の日常が見られるなんて、恥ずかしすぎて死ぬ。そんなの俺、クッコロ女騎士になっちゃう。
「まあ、また動きあったら教えてよ。あまり頼りにはならないかもしれないけどさ」
さっきまで俺のパッとしなさをいじっていたかと思えば、急に優しい顔になる。これが一部の女子を落とす、麗しの紅きゅんスマイルか。防御がなかったら俺もダメージを食らうところだった。
誰かの悪意が自分に向けられているかもしれないことを思うと、もう少し誰かにこの件について話していたかったが、紅は塾があると言うのでこの日は解散した。紅と別れて川沿いの土手を降り、住宅街をバス通り手前まで進んだ辺りで、ポケットの中のスマートフォンが再び短く振動した。
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