第31話 彼の野望

 週末、二人は電車を乗り継いで鎌倉にやって来た。駅周辺は人でごった返している。

 電車を降りた途端、冬華の周囲を重苦しい空気が纏った。何故だか分からない。ここに来てはいけないと、自分の中で何かが叫んでいるようだった。


「少し歩こう」


 興俄は冬華の手を取る。相変わらず冷たいその手に、冬華の身体がピクリと跳ねた。

 鎌倉駅を出て少し歩くと、道路の中央に鳥居が見えた。鳥居の両脇には白くて大きな狛犬がいる。『鶴岡八幡宮』と記された碑が冬華の視界に入った。彼女の足取りは重かった。足首に錘をつけられているようだった。

 しばらく歩くとまた、赤い鳥居が見えた。


「ここだ。鶴岡八幡宮、鎌倉八幡宮とも言うかな」


 鳥居を見上げて嬉しそうに興俄が言った。実際に彼の機嫌はとても良かった。一方の冬華は立っているのがやっとだ。ここは嫌だ、苦しいと自分自身が訴えている。ただの体調不良とは違う、得体の知れない苦しさが己の身体を包んだ。呼吸をすることさえ拒否しているようだった。それでも、しっかりと握られた冷たい手が彼女の手を引く。二人は鳥居を潜り抜け、まっすぐと進んだ。

 鶴岡八幡宮の本宮へ上る石段下に、本宮の神様を遥拝する舞殿が見えた。


「あの辺りだったかな。お前の舞は実に見事だった。かなり腹立たしくもあったが」

 興俄は嬉しそうに冬華の耳に囁いた。彼女の背筋に冷たいものが走った。


『文治二年(一一八六)四月八日 乙夘 二品并御臺所御參鶴岳宮 以次被召出靜女於廻廊 是依可令施舞曲也 此事去比被仰之處 申病痾之由不參 於身不屑者者 雖不能左右 爲豫州妾忽出揚焉砌之條 頗耻辱之由 日來内々雖澁申之 彼既天下名仁也 適參向 歸洛在近 不見其藝者無念由 御臺所頻以令勸申給之間被召之 偏可備 大菩薩冥感之旨 被仰云々 近日只有別緒之愁 更無舞曲之業由 臨座猶固辞 然而貴命及再三之間 憖廻白雪之袖 發黄竹之歌 左衛門尉祐經鼓 是生數代勇士之家 雖繼楯戟之塵 歴一臈上日之職 自携歌吹曲之故也 從此役歟 畠山二郎重忠爲銅拍子 靜先吟出歌云 

吉野山峯ノ白雪フミ分テ入ニシ人ノ跡ソコヒシキ 

次歌別物曲之後 又吟和歌云

シツヤシツシツノウタマキクリカハシ昔ヲ今ニナスヨシモカナ

誠是社壇之壯觀 梁塵殆可動 上下皆催興感 二品仰云 於八幡宮寳前 施藝之時 尤可祝關東万歳之處 不憚所聞食 募反逆義經 歌別曲歌 奇恠云々 御臺所被報申云 君爲流人坐豆州給之比 於吾雖有芳契 北條殿怖時宜 潜被引篭之 而猶和順君 迷暗夜 凌深雨 到君之所 亦出石橋戰塲給之時 獨殘留伊豆山 不知君存亡 日夜消魂 論其愁者 如今靜之心 忘豫州多年之好 不戀慕者 非貞女之姿 寄形外之風情 謝動中之露膽 尤可謂幽玄抂可賞翫給云々 于時休御憤云々 小時押出 卯花重 於簾外 被纏頭之云々                  吾妻鏡 第六巻より』


――鶴岡八幡宮を参拝した頼朝と政子は、静御前に舞を奉納するよう命じる。最初は拒んでいた彼女だったが、やがて義経を慕う舞を披露する。頼朝は反逆者である義経を慕う歌など許せぬと怒ったが、政子が執り成し、その場は収まった――


 興俄に手を引かれたまま、冬華は鶴岡八幡宮の広い敷地内を歩いた。


「これは静桜だ。春になれば見事な花を咲かせる。また共に見に来よう。そう言えば、もうすぐ七夕まつりも始まるな」

 彼はなにやら一生懸命に話をしているが、彼女の耳には入らなかった。

 

 一通り神社を見て回り、二人は場所を移動した。彼は若宮大路をまっすぐに進む。鎌倉駅の方にではなく、大通りをただ真っ直ぐに進んだ。突き当りまで行くと滑川という看板が見える。その先に鎌倉を代表する渚が見えた。


「砂浜まで行こう。冬華は俺に話があるんだろう」

 彼は歩を進めた。

「あの、もう帰りませんか? 私、海は苦手なんです」


 子供の頃から海が苦手だった。初めて母と海に行った時、寄せては返す波が怖かった。海に行ったのは数回だが、行く度、あの波に大切な何かが攫われそうな気がしていた。


「先輩、私の話は帰ってからでいいです。だから……」

「ここは由比ヶ浜だよ」

 海を見つめて興俄は言った。彼の声と共に、潮の香りと波音が冬華の五感に何かを訴えてくる。


「ゆいが……はま」

 冬華が呟いた途端、それまで晴天だった空に黒い雲が広がった。彼女の視界が歪んだ。海が傾いて見える。風が強くなり、波が高くなる。雨粒が空から絶え間なく落ちてきた。


「大丈夫か」

 興俄は彼女をそっと引き寄せた。彼の指が冬華の肩に食い込んだ。激しい雨が二人の身体に降り注ぐ。


「帰りたい……もう、帰りましょう」

 冬華は呟いて興俄を見る。雨は激しさを増す一方だった。彼は雫を落としながら、まっすぐに冬華を見ていた。漆黒の瞳が、貫くように何かを求めるように彼女を見る。

「俺の子供もね、水底に沈められたんだ。千鶴御前は三つになった男子だった。俺の子供は死んだのに、あいつの子供だけを生かすという選択肢はあり得ないだろう。勿論、生かしておけば、将来俺にとっての脅威になる。あの時、俺はお前を殺さなかった。なぜだか分かるか。お前を欲していたからだ」

「あの、何の話をしているんですか」

  彼の瞳は、確かに冬華を映していた。けれども彼の発する言葉が理解できない。否、冬華の中にある何かが、彼の言葉を遮断しているようだった。

 そっと彼の手が冬華の頬に触れた。


「もうすぐ、俺が再び国を造る。この鎌倉に」

 動揺している冬華に構わず、彼は続けた。

「あの時代は天変地異の連続だった。疫病も流行った。まさに今、同じ事が起こっている。歴史は繰り返そうとしているんだよ。その渦中に俺たちはいる。今こそ、改革の時期なんだ。この国を取り戻すためのね」

 冬華は、彼を見つめたまま雨の中に立ち尽くしていた。動きたくても動けなかったのだ。


「だから、何の話をしているんですか? 先輩の言いたいことが、全く分からないんですけど」

 精一杯の感情を露わにして言ったが、彼には何も響いていないようだった。

「法皇も言っていただろう。お前を『神の子か』と。お前は選ばれし神の子。人間の力ではどうにもならないモノを操ることが出来る。俺はそう確信している。だからお前が必要なんだよ」

 彼はそっと冬華を引き寄せた。彼女を抱きしめたまま耳元で囁いた。


「二人でもう一度、この国を造ろう。お前の力をもってすれば、容易いことだ。なぁ、静」

「え……?」


――この人じゃない。私が会いたかったのは、捜していたのは、この人じゃない—―

 何かに急かされるように、冬華は必死に彼の腕を振りほどき、身体を離した。そして、振り返ることなく、その場を駈け出した。



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