第28話 夢うつつ
真剣な鷲の眼を思い出して、顔が熱くなる。何故こんなに熱いのか分からない。いつもの彼とは明らかに違った眼差しだった。どうしてあんな眼で見られる理由が判らないけれど、絡め捕られるように感じて心臓が跳ね上がっていた。そしてなぜ自分が彼の腕を掴んだのかも分からない。
その晩の冬華は疲労を感じているのになかなか眠れなかった。昼間見た北川先生と興俄先輩の姿が脳裏を離れない。明日からどんな顔をして、先輩に会えばいいんだろうか。できれば会いたくない。昼間目にした光景を告げれば、先輩は何と言い訳するのだろう。最初から面白半分で付き合っただけだと言われるのだろうか。お前なんて本気で好きになるはずがないだろうと罵られるのだろうか。好きでもないなら最初から話しかけないで欲しかった。先輩は一体何がしたかったのだろうかと思い悩む。そして、椎葉鷲の真剣な眼差しを思い出す。するとまた、心臓が激しく鼓動を打ちはじめた。
グズグズと思い悩みながらも、気が付けば眠りに落ちていた。時は東雲の頃。冬華は夢の中にいた。男女が向かい合って座っている。よく目を凝らすと、女は自分のような気がする。男の顔はよく見えない。
『愛おしいな、お前は』
男が優しい声で言う。
『お慕い申し上げております』
女は目の前にいる男に笑顔を向けた。
『私もだよ。お前を永遠に愛している』
男はそっと女を抱きしめようとする、しかし女はゆっくりとそれを制した。
『お戯れを。私のことなど、すぐに忘れるのでしょう。人の世に永遠などありませぬ』
男の目を見つめ、女は言った。
『もしも、この命が尽き、お前を忘れたら……』
男もまっすぐな眼差しを女へと向ける。
『忘れたら?』
女もまた問い返す。
『忘れたとしても、再び出逢えるさ。再び出逢い、また愛するだろう。いつの世でも見つけるまで、私は諦めないよ』
男の顔がはっきりと見えた時、朝を告げるアラーム音が遠くで聞こえた。アラームが鳴っている。ぱちと目を開けた冬華は呟いた。
「なんで椎葉くんが……」
最近よく夢を見るとは思っていた。いつも起きてしまえば何の夢だったか忘れていたが、今回ははっきりと夢の内容を覚えていた。
自分と椎葉鷲が、夢の中で想い合っていたのだ。夢の中の彼はとても優しい眼をしていた。そしてふと、顔に違和感を覚えて頬に触れた。そこで、自分の頬が濡れていると気がついた。夢を見ながら泣いていたらしい。けれども何故泣いているのか、冬華自身、全く分からなかった。
「うわぁ、なんなのよ。この夢」
とんでもない夢を見たと思いながら、頭を掻きむしる。いくら昨日、興俄先輩と北川先生のキスシーンを見たからと言って、この夢はあんまりだ。最低すぎる。自分だって先輩を責められない。だいたい椎葉くんには想う人がいるはずだ。『シズカ』と言う名の大切な人。それを知りながら、なんて夢を見てるのよ。と、冬華はどんどん自己嫌悪に陥った。
学校に着くと、できるだけ鷲と顔を合わさないように過ごした。始業前から席につき、本を読み始める。休み時間もただ、本を読む。ともちゃんとゆかりんが何やら声を掛けるが『今日は読書の気分なの』と視線を上げずに答えた。
昼休み、誰かが彼女の机の前に立っている。手元にある文字に影ができた。ともちゃんかゆかりんだろうと冬華は顔を上げて、影の持ち主を確認した。そして固まった。
「昨日はごめん。あれから考えたんだ。やっぱり嫌だったよね。髪に触れるとか」
鷲が申し訳なさそうな顔で冬華を見ていた。彼の顔を見た途端、彼女の脳裏には昨夜見た夢がはっきりと蘇った。
「ええと、き、昨日は、い、嫌じゃなかったからホント、気にしないで」
彼と視線を合わせないように、精いっぱい答える。
「どうしたの? 顔が赤いよ。体調が悪いなら保健室に――」
「え、そう。そうだ、風邪気味なの。保健室に行くよ」
鷲が全てを言い終える前に、冬華は早口でまくしたて、わざとらしく咳き込みながら教室を出て行った。たかが夢なのに何を動揺しているのだろうと、また落ち込んだ。
重い足取りで廊下を歩いていると、
「冬華」
背後から逢いたくない人の声がする。
「昨日から連絡しているんだけど」
立ち止まった背中に声が掛けられる。冬華は足を止め、ゆっくりと振り向いた。
「もしかして俺、避けられてる?」
いつもと変わらない笑顔で興俄は冬華の前に立った。
「どうしてですか」
冬華の声は震えていた。
「ん、何が?」
「私を馬鹿にして何が楽しいんですか? 北川先生との関係、何も知らないと思ってふざけるのもいい加減にしてください。先輩は私と付き合う前から北川先生と付き合っていたんでしょう」
絞り出すように冬華が告げると、一方の興俄は笑顔のまま答えた。
「前にも言ったろ。あの人とは腐れ縁だって。愛しているのはお前だけだよ」
「そんなの、口では何とでも言えますよね」
「じゃあ態度で示せ、と?」
興俄の顔から笑みが消える。
彼は冬華との距離をじりじりと詰めた。冬華の足が一歩下がる。すると興俄が一歩前に出る。一歩、また一歩と後ろに下がるたびに、彼は追い詰めるように前に出た。
冬華の背中が廊下の壁に当たり、もうこれ以上は逃げられなくなった時、興俄は彼女を見下ろした。
「これから二人で逃げるか? このまま学校を抜け出して、どこか遠くに行くか? そうすれば俺を信用するのか? お前は黙って俺についてくるのか?」
「それは……」
目の前で放たれる低い声に、冬華は口ごもる。
その時、
『冬華!』
遠くから名前を呼ばれて、冬華は顔を向ける。と、同時に興俄は溜息をつく。声を掛けたともちゃんとゆかりんが二人に駆け寄った。
「じゃあ、俺は教室に戻るから。キミたちも授業が始まるよ」
興俄は友人二人に微笑んでゆっくりと去って行った。
「あ、もしかして声掛けちゃまずかった?」
気まずそうにゆかりんが言うと、
「神冷先輩、一瞬すごく怖い顔したよね。あんな顔、初めて見た」
ともちゃんは興俄が去って行った方向を見つめている。
「え? そんな顔した? それより、冬華の具合が悪そうだって椎葉くんに聞いてさ。一緒に保健室へ行ってあげるよ」
ゆかりんは首を傾げ、冬華の腕を取った。
「ありがとう。でも、もう大丈夫だから」
「ダメ。冬華、朝から様子がおかしいよ」
「そうそう、ちょっと休んだほうが良いって」
二人に付き添われて、保健室へと向かった。
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