第26話 先輩の彼女は私じゃなかった。
翌日の放課後。
「冬華、一緒に帰ろう。ともちゃんは賢哉と帰るって。あ、もしかして神冷先輩と約束がある?」
帰り支度をしていた冬華に、ゆかりんが声をかける。
「ううん、先輩とは約束してないよ。一緒に帰ろう」
今朝、興俄からは『おはよう。昨日は家まで送れなくて悪かった。無事に帰ったか』とメッセージが来た。昨夜の出来事を思い出し、なんと返事をしようか迷ったが『おはようございます。ちゃんと家に帰りましたよ』とだけ返信した。
そして今朝から校内でも彼とは会っていない。
「また降り出したね。さっきまで止んでいたのに」
空を見上げてゆかりんが言う。梅雨はまだ明けず、今日も朝から雨だ。灰色の雲が細かい雨を地上に注いでいた。二人は傘をさして学校を後にする。さしたばかりの傘があっという間に濡れ始めた。
「この調子じゃ、制服も濡れるね。明日も学校なのに嫌だなぁ」
ゆかりんが顔を顰めると
「でも雨って大事でしょ。雨乞いの儀式なんてあるくらいだし」
冬華は真面目な顔で返した。
「雨乞いの儀式? それっていつの時代よ」
ゆかりんが笑うので、冬華もつられて笑った。
帰り道、ゆかりんとの話題は尽きない。彼女は生徒や先生の噂話、最近オープンした美味しいスイーツの店、様々な話題に詳しい。
「知ってた? 椎葉くんって三年生に人気なんだって。可愛い美少年キャラらしいよ」
嬉しそうに話すゆかりんを見て、冬華が苦笑いする。
「それって椎葉くんは知っているのかな。可愛い美少年キャラって、本人は嬉しくないような気がするんだけど……」
「そう言えばかっこいいよね、彼」
唐突にゆかりんが言った。
「え、椎葉くん?」
驚いた顔で、ゆかりんを見る。
「違うよ、椎葉くんは細すぎ。私のタイプじゃないって。そうじゃなくて、いつも一緒にいる三年生。あの人かっこいいよね」
「ああ、御堂さんか」
「前から素敵だなって思ってたんだ。いざという時、守ってくれそう」
ゆかりんは以前から、自分を守ってくれそうな男子が好きだ。確かに、厳つい外見の御堂は彼女の好みだろう。
「確かに強そうだね。それに昨日話したけれど、とても優しくていい人だったよ」
「冬華、話したの? いいなぁ。私も話してみたいなぁ。今度紹介してよ。冬華は神冷先輩、ともちゃんは賢哉とラブラブじゃん。私だけ寂しい思いしてるんだよ。親友を助けると思ってさ。お願い」
縋るような目で手を合わせるゆかりんを見て、冬華は苦笑いした。
「私達はラブラブじゃないよ」
「ちょっと。あの神冷先輩を独り占めして、そのセリフ言う? 冬華は今、校内の女子を敵に回したね」
頬を膨らませ詰め寄るゆかりんに、冬華は困ったような顔をした。
「校内の女子を敵って、そんな大袈裟な」
今の彼女は興俄に対して言いようのない不安を抱えていた。昨夜の出来事が、彼に対して抱いていた見えない壁をより強固なものにしていたのだ。
「あれ? 噂をすれば、ほら、あそこにいるの神冷先輩じゃない?」
ゆかりんが大通りの反対側を指さす。片側三車線ある大通りの向こう側に、制服姿の興俄先輩が傘をさして一人で歩いていた。車の往来が多い通りなので、彼の姿は車の間からしか見えない。
「先輩、何をしてるんだろう」
傘をさした彼の顔を見ると、いつも見せる涼し気な表情ではなく少し疲れたような顔をしていた。
「なんか先輩疲れてない? そっと背後から近づいて脅かしたら元気になるかもね。邪魔しちゃ悪いから、私はここで帰るよ。先輩を元気づけてあげて。また明日ねぇ」
「あ、ゆかりん。今日は……」
先輩に会いたくない、と言いかけた冬華の声も聞かず、ゆかりんはあっという間に去って行った。
残された冬華は一番近い信号交差点へ向かった。信号が変わり一歩足を踏み出した時だった。傘をさした女が彼に近づく。女は自分の傘を畳んで彼の傘に入った。
「あれは北川先生……だ」
隣に並んだのは北川麻沙美だった。一つの傘に入った二人は寄り添うように歩いている。冬華の存在には気づかず、大通りを離れて路地に入って行った。信号を渡った冬華も距離を取りながら後をつけた。覗きのようだと思いながらも、このまま見ないふりはできなかった。
大通りから離れた二人はどんどん細い路地を進んで行く。高いビルの間にある路地は薄暗い。車が一台通れるかどうかの道を抜け、車も通らない人がすれ違うのがやっとの場所で二人は立ち止まった。
冬華は姿を見られないよう、身体を斜めにしてビルの間に隠れる。耳をそばだてて様子を伺った。
「もう、待ちくたびれたわよ。本当に貴方は待たせるのが好きなのね」
北川先生の声がする。先生はいつもの厳しい雰囲気ではない。少し甘えたような声で興俄先輩を見つめていた。向かい合った先輩はやれやれと言うふうに、溜息をついている。
「貴女も本来ならまだ校内にいる時間でしょう。自由気ままに俺を呼びださないでくださいよ。それで何の用です?」
「用がないと会えない関係でもないでしょう」
先生は微笑んで先輩との距離を縮める。顔を上げ興俄先輩の首に手を回した。先生の瞼が閉じられると、二人の唇がゆっくりと重なる。それと同時に彼が持っていた傘が手を離れ、濡れた路面を転がった。
冬華は傘を握りしめたまま雨の中に立ち尽くしていた。彼女はいたたまれなくなり、そっとその場を離れた。
――フタマタをかけられていた。
少しは疑っていたけれど、本当に付き合っていたなんて。だいたい、教師が教え子に手を出すなんて許される話じゃない。けれど、先輩が本気だったら。二人はいつからあんな関係だったんだろう。私に出会う前からだったら。ずっと二人で私を笑っていたのだとしたら。じゃあどうして昨日、先輩は私にキスなんてしたのだろう――
目頭が熱くなる。こんな場所で泣いちゃだめだと自分に言い聞かせるが、自然と涙が溢れた。告白されて、舞い上がって、大事にされていると思って、ドキドキして、私一人でバカみたいだ。
零れ落ちる涙を拭うこともせず、冬華は降りしきる雨の中を歩いた。
「あら、彼女に見られたわね」
冬華が立ち去るのを視界の端で見届けると、麻沙美は彼から離れた。
「わざとでしょう。彼女が見ていたのを知っていて、こういうことをする。ホント相変わらずやり方がストレートすぎますよ」
興俄は呆れ顔で転がった傘を拾った。
「それだけ貴方を愛しているのよ。ところで、彼女は覚醒したのかしら。仲間になりそう?」
「秘めたる力があるのは、間違いないですね。俺と同じだ。今は己の前世に気がついていませんが、気づかない方が好都合でしょう。このまま余計なものは見せずに、味方につけようと思います。だから邪魔しないでください。だいたい、こんな光景を見せつけて俺にどうフォローさせるつもりですか?」
咎めるように言うが、麻沙美は悪ぶれる様子もない。
「あら、貴方はいつも自分に靡かない女はいないって自信満々だったじゃない。今までの彼女は私がちょっかいかけても涼しい顔だったのに。ああ、そうか。あの子には彼がいるから?」
質問を質問で返された興俄は、溜息をついた。
「あの男の存在を思い出されては、色々と支障があります。それに、彼女は特別でししょう。俺の野望に必要な人間だ」
「へぇ、珍しく自信がないのね。あの子が彼を思い出しても良いじゃない。あんな別れ方をした男が近くにいるのよ。いずれは覚醒すると思うんだけど。その時は彼女を説得してただ仲間にすればいいだけ。貴方の野望を知れば、どんな人間も味方になってくれるって言っていたじゃない。貴方の人心掌握術を使えば誰でも味方になるんでしょう? まさか、恋人ごっこで繋ぎ止めておくだけでは不満で、覚醒しない彼女と本物の恋人になりたいとか思ってるの? こればかりは弟に勝てないから」
麻沙美の言葉に興俄の眉がかすかに曇った。
「貴女が何を言いたいのか、よく分かりませんね。あの男にも俺の力は通用しないんですよ。昔、同じ時代を生きた人間にはなぜか、この力が通用しない。それに、あいつは前世を覚醒して彼女に近づいてる。厄介な存在なんですよ」
「まぁ、そういう話にしておいてあげるわよ」
麻沙美は意味ありげな微笑みを浮かべた。
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