第17話 八百幾年の時を超え、対峙した二人

 その日の夕方、椎葉鷲は一人で帰路についていた。御堂に声をかけたが、彼は用事があると言って先に帰っていた。

 御堂は『彼女について気になる話を聞いた。あとで連絡するけれど、何を言っても落ち込むなよ』と意味不明なセリフを残して去って行ったのだ。


 空を見上げれば、すでに日は暮れかけている。まだ梅雨は明けそうもないが、今日は少しだけ日が差した。涼しさは微塵も感じられず、夏がそこまで来ていると肌で感じた。


 ふと道路の右側に男の姿が見えた。彼は塀に身体を預け腕組みをしていた。よく見ると、同じ学校の制服を着ている。顔は陰になって分からない。

 彼の前を通り過ぎるとき、刺さるような視線を感じた。視界に入った名札の色からこの人は三年生だなと思いながら軽く会釈をし、歩を進めた時だった。


「なるほど、誰だかすぐに分かったよ。久しぶりだね」


 突然かけられた言葉に鷲は足を止めて振り返り、彼を見た。黒髪で整った顔立ち、長身ですらりと伸びた両手足。同じ高校の制服を着てはいるが、全く知らない男だった。


「はい?」


 名も知らぬ人間から掛けられた声に戸惑い、彼の顔を見つめた。名札には神冷と記されていた。


「椎葉鷲くんですよね」

「そう、ですけれど。えっと、貴方は同じ高校の……」


 神冷と言う名前に覚えはない。御堂の友人だろうか。どなたでしたかと続けようとした時、不意に言葉を失った。声が出ないのだ。身体中に言いようのない悪寒が走った。


「例えお前が誰であろうと、過去に何があろうと、現世で彼女を渡すわけにはいかない。絶対にな」


 無表情のままで興俄は言った。鷲の身体が小刻みに震える。まだ声が出ない。


「さようなら、椎葉くん。今も昔も俺は容赦しないよ。命が惜しければ余計なことはしないでくれ」

 興俄は背を向けてそのまま反対方向へ歩き出した。鷲は彼の背中をただ見つめていた。

「まさか……あの人が……ここにいるなんて……」

 数十秒後、鷲はやっと言葉を絞りだした。おぼつかない手で鞄からスマホを取り出し、電話をかける。


「鷲、どうした?」

 電話の相手、御堂嶽尾が尋ねた。

「話があるんだ。今どこにいる」

「ああ、俺も大事な話がある。お前にとっては辛い知らせだ。直接会って話したほうが良いだろうな」

「あけぼの公園まで、すぐに来られるか」

 鷲はここから一キロほど先の公園を指定した。

「分かった。二十分あれば行ける」


 公園に着くと、御堂が先に来ていた。公園の前に自転車があったので、乗って来たのだろう。御堂は塗装の剥げた滑り台に背を預け、腕を組んで立っていた。彼は鷲の姿を確認すると、軽く片手をあげる。


「どうしたんだ、慌てて電話してくるなんて」

 怪訝な顔で御堂が聞いた。

「大変なことが起きた」

「なんだ?」

「まさか、ありえない。いや、何故。何が起ころうとしているんだ。どうして、あの人が」

 鷲はぶつぶつと何かを繰り返す。

「おい、分かるように説明しろ。さっきから何を言っているんだ。とりあえず、落ち着け。あのベンチに座ろう」


 二人は公園の隅にある、水色に塗られたベンチに座った。


「だから、どうしたんだよ」

「あの人が……いたんだ……それもこの学校に……僕を追い詰めたあの人が……この時代に蘇っていたんだよ。一目見てすぐに分かった……あの冷たい目は絶対に間違いない」


 鷲の台詞に、御堂は目を見開く。

「なんだって?」


「今さっき、話しかけられたんだ。苗字は神冷。名札の色がお前と同じ、三年生だった」

 重々しく鷲は口を開く。


「俺のクラスの神冷興俄? あの生徒会長が?」

「あの人、生徒会長なのか。御堂は同じクラスなのに気が付かなかったのか? しっかりしろよ」

 責めるような口調で鷲が詰め寄る。


「まさか、あいつが。そうか……参ったな……」

 御堂は言いにくそうに口を開いた。

「俺の話は、その神冷興俄が……」

 一呼吸置いて御堂は続ける。

「あいつが夢野冬華の彼氏なんだよ」


「は? 何の冗談……」

 鷲は言葉を失った。

「俺も冗談だったら良いのにって思ったさ。夢野冬華には三年生の彼氏がいるって聞いたから、相手が誰か調べていたんだ。さっき同級生に聞いて判明した。それが神冷興俄だ。まぁ、今回は俺達の方が、出逢うのが遅かったみたいだな。いや、彼女が覚醒すればすぐに鷲の元へ戻るって」


 御堂は慰めるような口調で言うが、実際のところ何の慰めにもならなかった。


「あの人はさっき、『現世で彼女を渡すわけにはいかない』と言ったんだ。きっと彼女の前世を知っている」

「なぜ静を? 欲しがる理由はないだろう。あの人には妻や妾がいたはずだ。いや、ただの女好きか」

 ぶつぶつと言いながら御堂が首を捻る。


 鷲の頭の中では、様々な思いが渦巻いていた。

――静と別れた後、何があった。鎌倉で何があったんだ――

 そして一番の杞憂は、記憶のない彼女の眼に、自分はどう映っているのかということだった。


「鷲、急ぐんじゃないぞ」

 御堂は、物思いに耽っている鷲に釘を刺した。


「言われなくても、分かってる」

 不貞腐れたように鷲は答えた。


「彼女には今の生活があるんだ。お前が彼女との記憶を、無かったことにしたくないって気持ちは分かる。おまけにあの人と付き合っているなんて、辛すぎる現実だよな。でもな、彼女は全く覚醒していない。だいたい初対面で、いきなり髪の毛に触れるとか、一歩間違えれば犯罪者だぞ」

「あれは……不可抗力だ。じゃあ、お前はせっかく出会えたのに、僕にこのまま黙っていろって言うのか」

 苛立った口調で鷲が詰め寄る。


「おい、落ち着けよ。あのなぁ、恋愛は思い通りに行かないことだらけだろ。すれ違った結果、残酷な結末が待っている場合もある。だから、お前の勝手な記憶で縛り付けちゃ……」


「彼女もいないお前に、言われたくはないよ」

 吐き捨てるように告げられた御堂は顔を顰めた。


「おい、なんだそれ。お前さ、静の話になると熱くなりすぎだろ。いいか、お前だけじゃなくて俺もいるんだ。その意味をもっとよく考えろ。俺が神冷の周囲を調べるから、お前はちょっと頭を冷やせ」


「いや、迂闊に近づくな。僕だけに接触してきたとなると、お前の存在にはまだ気がついていない。あの人と相まみえるのは僕だけで十分だ」


 鷲の脳裏には先ほど対峙した男の姿が映っていた。彼の姿を思い出しただけで、全身の細胞が粟立つ。今世で一番逢いたかった人が彼女だとするならば、一番逢いたくなかった人があの男だ。意識の深い所で、うっすらと膜がかかった何かが浮かび上がる。それは少しずつクリアになり、今まさに瞼の裏に蘇った。


 血が飛び散り、何もかもが焼ける。ああ、自分はここで死ぬのかと覚悟した途端、生への執着がフッと薄れ、諦めとは違う、なんとも言えない心境になっていた。周囲に目を遣れば、血だまりの中倒れ込んでいる複数の身体。ここで共に生き、共に死ぬ妻、娘、仲間たち。込みあげてくるのは、あの人への憎しみ、怒り。

 そして、一つだけ気がかりなのは、もう一度会いたかった人。彼女は息災だろうか、こうなった今では確かめる術もない。もう一度……逢うことは……今生では叶わない望みだ。それならば……。


『文治五年(一一八九) 閏四月卅日已未 今日於陸奥國 泰衡襲源豫州 是且任勅定 且依二品仰也 豫州在民部少輔基成朝臣衣河舘 泰衡從兵數百騎 馳至其所合戰 豫州家人等雖相防 悉以敗績 豫州入持佛堂 先害妻廿二子女子四歳次自殺云々 

 吾妻鏡九巻より』


 1189年 朝廷の命令と頼朝の圧力に抗えなかった藤原泰衡は、数百の騎馬武者で源義経(豫州)を襲撃した。家来の戦いも数には及ばず、義経は妻子を殺害した後、自ら命を絶ったとされている。


「……おい……おい、鷲。大丈夫か」

 御堂の声で鷲は我に返った。

「ああ、悪い。ちょっと嫌な光景を思い出していた」

「まぁ、いきなりあの人にあったら混乱するよな。とにかく落ち着こうぜ。なんか美味いもんでも食いに行くか。腹が減っただろ」

「そうだな」

 おどけたように御堂が言うと、鷲の険しい表情が少し和らいだ。


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