第7話 もう一人の彼女

 椎葉鷲と別れた冬華は、友人二人を正門前で待たせていると思い出した。今日は先輩と一緒に帰る約束をしていない。正門まで近道をしようと、渡り廊下を土足で走っていたら、

「おい、どこを走っているんだ」

 背後から声をかけられる。

 先生に見つかった、まずいと思い立ち止まる。恐る恐る振り向くと、声の主は神冷興俄だった。彼は手にノートと筆箱を持っている。

「あ、興俄先輩。今から生徒会ですか?」

「そうだよ。本当なら可愛い彼女と一緒に帰りたいところだけど、今日は無理だな」

 彼はそう言うと距離を縮めた。

「そういえば、慌てていたみたいだけど、どうかしたのか。土足でどこを走っているのかな?」

「あ、すみません。友達との待ち合わせが」

「そうか、気を付けて帰れよ」

 先輩は微笑んで、冬華の頭を撫でる。何気ないスキンシップに彼女の頬が紅潮した。

「じゃあ、さようなら」


 ともちゃんとゆかりん、怒っているだろうなと思いながら、冬華はまた駈け出した。

 

 一方の興俄はそのまま廊下を進んだ。柱の陰から現れた人物を見て足を止める。


「北川先生……いつから見ていたんですか」


 北川先生と呼ばれた彼女の名前は、北川麻沙美きたがわ まさみ。この高校に在籍する日本史の教師だ。年齢は二十六歳。色白で派手な顔立ちの美人で、赤みがかった茶色の髪を無造作に束ねている。スタイルが良く、親しみやすいと言うよりは近寄りがたい存在だ。

 高校生にもなると生徒に馬鹿にされる教師もいるが、北川先生は例外だった。彼女はどんなに素行の悪い男子生徒にも厳しく、容赦なかった。不良と呼ばれる生徒達も彼女の前では大人しくなっていた。


「声をかけたところからかな。可愛いわね、貴方の彼女」

 北川麻沙美はにやりと笑った。


「最初から話を聞いていたのか……悪趣味ですね」

 興俄は小さく溜息をつく。


「だって、貴方がまた女生徒を泣かせるんじゃないかと思って見てたのよ」

「泣かせたのは先生でしょう。嫉妬深くて気性が激しいのは、相変わらずなんですから」

「人聞きが悪いことを言わないで。貴方が女好きだからでしょ。厄介ごとが増える前に、早く彼女を手懐けなさいよ」

「ええ、手は打ちますよ。俺になびかない女はいませんから」

「はいはい、大した自信ですこと。それよりも、貴方の言葉はいちいち聞き捨てならないんだけど。誰が嫉妬深くて気性が激しいのよ」

「気分を害したならすみません。まぁ、でも、先生が俺を見つけてくれたことは、感謝していますよ」

 今度は興俄が意味ありげに笑った。


「ちょっと。さっきから先生って呼ぶのはやめて。それと、二人きりの時は敬語を使わないでと言ったでしょう。まさか、私より十歳も年上だった貴方が、今度はこんなに年下だったなんて予想外よ。私が周囲の猛反対を押し切って、流人だった貴方の妻になった過去を忘れていないでしょうね」

「敬語は使った方が良いと思いますよ。誰が聞いているか分かりませんから。それに覚えていますよ。嫉妬深い貴女が、俺が通っていた女の屋敷を破壊したこととか」

 盛大な溜息をついて、興俄は肩を竦める。


「私に内緒で妾を囲うからでしょう」

 麻沙美は目を細めて興俄を睨み付けた。


「勘違いしないで欲しいんですけれど、俺は貴女を大切にしてきたつもりです」

 穏やかな口調で興俄は微笑む。しかし、彼女は納得がいかないようだ。


「私はいつも騙されていた。否、少しは疑っていたかも。まぁ、今となってはもうどうでもいいわ。それより、あとで私の家に来て。泊って行けるでしょ」

「はいはい、仰せのままに」

 気だるそうに頷いて、興俄はその場を立ち去った。

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