第27話 浮気者(Ⅰ)

 パラリ……ペタン、パラリ……ペタン、パラリ……ペタン。

 魔王執務室に響く単調なリズム。

 この部屋の主、魔王ベルンハルトが書類に判子を押す作業を、ケヴィンは見守っていた。


 今のケヴィンがどういう状況かと言うと、ベルンハルトの決裁の書類を待っているところである。

 ケヴィンは緊張しつつ、少し居心地悪そうに佇んでいた。ベルンハルトは気さくな王だが、やはりこの国のトップを前にすると委縮してしまう。小心者のケヴィンだからなおさらだ。


 というか、今日はいつもより威圧感があるような……ボクの錯覚かな?

 そんなことをケヴィンが考えていると、不意にノックの音がした。


「グレースです」


 ベルンハルトは、判子を押す手をピタリと止める。彼のことだから、たちまち相好を崩し、グレースを歓迎するだろうとケヴィンは予想した……だが。


「……入って良いよ」


 思いのほか低い声に、ケヴィンは目を丸くする。いつものベルンハルトと反応が違いすぎるのだ。


「失礼いたします」


 ケヴィンは入室したグレースとベルンハルトの双方を見比べた。グレースはいつも通りだが、ベルンハルトはどこか拗ねた表情をしているように映る。実際、彼は口を尖らせてグレースを恨めし気に睨んでいた。


「陛下。この書類は明後日まで決裁を――」


 グレースは腕に抱えた書類をベルンハルトに差し出したが、彼はそれを受取ろうともしなかった。無言のまま、ジトリとした眼でグレースを見上げている。


「陛下…?」


 グレースもさすがに妙だと思ったのか、小首をかしげてみせた。すると、ベルンハルトが口を開く。


「浮気って良くないと思うんだよね」

「……は?」


 突然、そんなことを言い出したものだから、グレースだけではなくケヴィンもポカンとした顔になった。


「俺はそういうの、全然気にしないほうだと自分でも思っていたんだけれど、どうも違ったみたい。自分のものに手を出されるって、イヤなもんだね」


 グレースをジッと見つめながら、恨み言を口にするベルンハルトは、まるで浮気をした恋人を咎める男のように見える。そして、この場合――責められている相手は一人しかおらず……。


 秘書長官様が浮気をしたっていうこと?ということは、二人はやはり関係なのか――そろりとケヴィンがグレースを伺うと、彼女は明らかに困惑した表情をしていた。


「いったい、何のことか。身に覚えがないのですが」

「へぇ、とぼけるんだ」

「とぼけるも何も…」


 グレースは考え込むが、やはり思い当たる節がないようで、かぶりを振る。すると、ベルンハルトは「無自覚なんだ」と盛大な溜息を吐いた。


「先日、ザシャと仲良くやっていたそうじゃないか」

「え?」

「わざわざ、王都から離れて災禍さいかノ大密林で逢っていたんだろう?」

「ああ、あの時の……って、なぜ陛下が知っているんですか?」

「俺にも色々と情報網があるんだよ。ていうか、浮気していたことは認めるんだ?」

「いいえ。というか、どうしてアレが浮気になるのか。意味が分かりません」


 ベルンハルトが浮気だと言う件について、やっとグレースも心当たりを思い出したらしい。ただし、ソレを浮気だと言われることには納得いっていないようだった。


「俺というものがありながら、人目を忍んでザシャと逢っていたんだろう?十分浮気だよ」

「そもそも私は陛下の恋人でも何でもないのですが…」

「あ、今そういうこと言う?」

「それにザシャ閣下とは、偶然お会いしただけで」

「下手な嘘を言うのはやめなよ。じゃあ、君は何しにあんな辺鄙へんぴなところに行ったんだい?」


 ベルンハルトの語気が徐々に荒くなっていく。


 まさか、これは修羅場と言うものなのだろうか。この二人が本気で喧嘩を始めたら、無力な自分はどうなるのだろうと、ケヴィンは青くなる。

 この二人の痴話喧嘩に己は全く関係ない。できることならすぐに此処から立ち去りたいと、ケヴィンは泣きたい気持ちになった。


 ケヴィンがベルンハルトに視線を移すと、彼はいつになく鋭い目でグレースを睨んでいた。

 普段は温厚で、のらりくらりしているが、それでも魔王は魔王。走って逃げだしたくなるような迫力があった。ベルンハルトが醸し出す剣呑な空気にあてられて、ケヴィンの頬に冷汗が伝う。


 一方、グレースはやれやれと肩をすくめ、そして言った。


「魔法の鍛練をしに行きました」

「……へ?」


 意外な返答だったのか、ベルンハルトはキョトンとする。


「魔法の鍛練…?」

「はい。『黒ノ魔弾』を習得しようと思って」

「いやいやいや。口から出まかせを言うのは止めなよ。そんなの、わざわざ災禍さいかノ大密林に行かなくても、魔王城ここで練習すればいいじゃないか」

「陛下は私が魔導書から魔法を学ぶのが苦手なことを知っているでしょう?慣れない魔法を暴走させて、城を大破してもよろしいのですか?」

「……うっ」

「それに今回だけではなく、魔法の練習をするとき、私は大体郊外の誰も寄り付かないような場所に行ってますよ」


 グレースの言葉に覚えがあったのか、ベルンハルトは「そう言えば……そうだったような……」とうなる。


「じゃあ、本当にザシャとは偶然会ったの?」

「はい。なぜ、ザシャ閣下があのような場所にいらっしゃったかは、私にも分かりませんが」


 グレースの話を聞いて、ベルンハルトはブツブツと呟いた。

 そう言えば、アイツは動物とか魔物とかが好きで、昔からよく観察に行っていたな――と。


 先ほどまでベルンハルトがまとっていた剣呑な空気が薄れていき、ケヴィンはホッと胸を撫でおろした。


「……ザシャとは会って話をしただけ?」

「『黒ノ魔弾』の魔法を教えていただきました」

「えっ!?何ソレ!俺から魔法を教わるのは嫌がるくせにっ!!」

「陛下はベタベタくっついてきて鬱陶しいんですよ」

「ひどいっ!!」

「片や、ザシャ閣下は余計なことはなさりませんし」

「……うぅ。でも、考えてみれば、ザシャは他人ひとの女をとるような奴じゃないよな。根は超真面目だし」


 うんうんと頷き、納得したのか、ベルンハルトはいつものような明るい笑みをみせた。


「グレース、疑ってごめんね!ちょっと、人伝ひとづてに君とザシャが逢引きしていたって聞いちゃってさ。浮気を疑っちゃった」

「はいはい、どうでもいいです。それよりも、仕事の続きをしてください。まずは、ケヴィンに渡す書類を早く処理してください」

「うん、急いでやるよ」


 先ほどまでとは打って変わって、ベルンハルトは機嫌良く判子を押していく。

 ケヴィンがふとグレースを見れば、彼女は軽く頭を下げた。まるで、変な場面に付き合わせて悪かったと詫びているようである。


 魔王の秘書長官って大変だ。

 ケヴィンは改めて、そう思った。




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