第19話 ハニートラップ
鍛練場からの帰り道、グレースとミアは魔王城の中庭を歩いていた。穏やかな昼下がり、薔薇が美しく咲き誇っている庭の様子をグレースが横目で眺めていると、ミアがぽつりと呟く。
「ラルフってば、あんなに根詰めて大丈夫なのかしら」
合同訓練が終えた後も、ラルフはまだ自主練習すると言って鍛練場に居残っていた。ここのところのラルフは、いつにもまして鍛練に励んでいる。だが、いささか無理しすぎなのではないか――そう、ミアは気にしているのだろう。
ラルフが鍛練に没頭する理由は、グレースにも安易に想像がついた。
何者かにヘンネフェルト伯爵を殺害された事件、あれをラルフは今でも悔やんでいるのだ。己が見張っていたのにもかかわらず、見す見す伯爵を殺されてしまったことに責任を感じている。だから、同じ失態を繰り返さないよう、訓練に励んでいるのだろう。
努力するのは結構なことだと、グレースは思う。多少の無理は良い。だが、無茶はだめだ。度が過ぎるようなら、ラルフと一度話し合っておいた方がいいな――と、彼女は心に留めておくことにした。
それからミアは数歩歩いた後、ふとこんなことを訊いてきた。
「あの、センパイ。私たちって、ちゃんと強くなっていますよね?」
ミアにしては珍しく弱気ともとれるような発言で、グレースは「おや?」と思う。
「もちろん。ミアもラルフも――皆、
「ですよね!」
途端に表情を明るくするミアに、何かあったのかとグレースは尋ねる。すると、ミアは憮然とした表情をした。
「実は昨日、絡んできた男がいたんです。最近入ったばかりの衛兵らしいんですけれど。女の秘書官なんて色仕掛けか、上に媚びるしか能がないだろうって面と向かって言われて」
「未だにそんなことを言う者がいるのか」
その新人衛兵はどこの田舎者なんだと、グレースは呆れ顔をした。
確かに、グレースが第七地獄に来る前の秘書官の職務は、魔王の私的庶務に留まり、要職とは言えなかった。しかし、現在は国内外の情報が真っ先に集められる部署であり、外交・内政の重要問題の決定権を持っている。
さらに、ミアやラルフを始めとする手練れの武官まで有し、反体制分子やスパイの監視・摘発などを扱う政治警察的な役割までも担っていた。
「それで、その物知らずな衛兵に君はどうしたんだ?」
「ぶっ飛ばしました」
そうだろうと思った、とグレースは肩をすくめた。
「こんなんで衛兵が務まるのか、不思議なくらいのザコでした。でも、そんなザコに下に見られるアタシにも問題あるのかなあ~ってモヤモヤしちゃって」
ぷぅと頬を膨らませるミア。小柄で愛らしい容姿と相まって、その所作は幼く見える。
「ラルフもこの前の失態を引きずっているし。なんか、自分がちゃんと強くなっているのか、ちょっと不安になっちゃったんです」
「そうか。まぁ、外見でこちらを舐めてかかる輩は何処にでもいるさ」
そもそも女だと言うだけで侮られやすい。グレースも通って来た道だけに、ミアの苦労や憤りはよく理解できた。
「そもそも女だから色仕掛けって、短絡的ですよね」
「そうだな。けれども実際、多い。それに時と場合によっては、非常に有効な手段になる」
「えっ」
ミアは瞬きし、驚いた顔でグレースを見る。
「どうした?」
「あっ…えっと。センパイがそんなこと言うなんて意外だなと思って。てっきり、色仕掛けには否定的なのかと」
「別に否定はしない。効果があるからこそ、ハニートラップはいつの世も、それが人間界でも魔界でも、なくならないのだろう」
グレースはあっけらかんと言う。
「でもでも!センパイは色仕掛けなんて、しないですよね」
「しないじゃなくて、できない。私はそういう教育を受けてきていないからね。技術がない」
「技術……?」
「ああ、もちろん。拷問しなくても、色香で相手から機密情報を入手できるなんて凄いじゃないか」
「ふぅん。そういう考え方もあるんだぁ」
ぶつぶつ呟いて、ミアは考え込むような仕草をする。それから、ふと顔を上げた。
「もしかして、アレもハニートラップを仕掛けているのかな?」
ミアの視線の先には、中庭に面した渡り廊下で数人の女性に囲まれたベルンハルトがいた。楽しそうに女性らと談笑している彼を見て、「さぁね」とグレースは軽く首を傾げる。
ミアの言う通り、色香でベルンハルトを誘惑しようとする者が混じっている可能性もあったが、グレースは特に心配していなかった。
そもそもハニートラップだけではなく、ベルンハルトについては警護の面でも、グレースはほとんど心配していない。この点は、かつての主であるウィルフレッドとの大きな違いだった。
ウィルフレッドのときは、グレースは常に辺りを警戒していた。いつ何時、彼の命が狙われるか分からない。言い方は悪いが、ウィルフレッドは弱く、ともすれば簡単に死んでしまうような庇護の対象だったのだ。
一方で、ベルンハルト。彼の警護について、あれこれを考えるのは杞憂である。その理由は至極簡単で、ベルンハルトが強すぎるから。彼を殺すことができる魔族なんて、他の魔王以外考えられなかった。
そしてもし、ベルンハルトが窮地に立たされているのなら、グレース程度が足掻いたって、どうにかなる問題ではない。それくらい、魔界において魔王の力は抜きんでていた。
ベルンハルトに仕掛けるのなら、暗殺よりも、まだ色仕掛けの方が勝算がありそうだ。まぁ、それも難しいだろうけれど……というのはグレースの感想である。
ベルンハルトに仕えて九十年。これまでグレースは、ベルンハルトをたらしこもうとする多くの女性を見てきた。けれども、その目論見が上手くいったことは一度たりとも知らない。逆に、ミイラ取りがミイラになったケースならあるが……。
一見、軽薄そうに見えるベルンハルトだが、いつものらりくらりしていて、己の腹の内が読ませない。グレースだって、彼が本当のところ何を考えているかなんて解らなかった。
巷では、グレースが色香でベルンハルトを思うままに操っているという噂があるが、彼女はそれを耳にすると鼻で笑いたくなる。あんな男、自由にできる手腕なんて私にあるわけがない、と。
「陛下に、ハニートラップなんて仕掛ける女性の気が知れないな」
グレースがそう呟いたとき、すぐ近くから声がした。
「え~?グレースになら仕掛けられたいなぁ」
振り返ると、そこにベルンハルトが佇んでいた。
「ええっ!さっきまで、向こうの渡り廊下にいたのに?いつの間にっ!?」
驚愕しているミアをよそに、にこにことベルンハルトはグレースに笑いかけてくる。
「グレースは仕掛けてくれないの?」
「ご冗談を。勘弁してください」
「え~」
どさくさに紛れて、ベタベタ触ってくるベルンハルトの手をグレースが邪険に振り払っていると、こちらに駆けてくる足音がした。
先ほどベルンハルトがいた渡り廊下から、中庭を横切って走ってくるのはクラークである。その様子を見て、グレースはすぐに何かあったのだと悟った。
「はぁはぁ…グレース様っ…大変です」
息を切らせながら、クラークが告げたのは、城内でシュタインマイヤー公爵付きの使用人の死体が発見されたという話だった。
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