第4話 死体の傷痕
人間が抱く魔界のイメージと言えば、空は常に闇に閉ざされ、大地は消えることのない
極寒や灼熱、毒や酸の沼――人間界ではとても考えられない自然環境に加えて、強力な魔物が生息する。
普通の人間が立ち入れば、忽ち命を落としてしまうような場所だ。
一方で、比較的天候気温が穏やかで過ごしやすい地域もあった。そういった場所に、魔族や亡者たちは街や村を築き、生活をしている。それらの土地は魔王や貴族が治めていて、そのあたりの仕組みはグレースが人間界にいた頃とさほど変わらなかった。
魔界『第七地獄』旋風ノ谷南方――この地域の領主は、魔族のエレオノーラ・バルツァー伯爵である。この日、そんな彼女の居城にグレースは呼び出されていた。
淡い魔力の
人払いをしているのか、気配を探っても周囲には誰もいない。
厄介事か、とグレースは考えた。そうでなければ、人の目を避けるようにして、こんな地下にエレオノーラが己を呼ぶ理由がない。
ややあって、グレースは地下の一室にやって来た。そこには、背の高い金髪の女性が佇んでいる。彼女がこの地を治める魔族、エレオノーラ・バルツァー伯爵だ。
「お久しぶりです。伯爵様」
「ああ、グレース。わざわざ、ご足労をおかけして、すみません」
「いいえ、問題ありません」
言いながら、グレースはエレオノーラの足元に視線を落とす。そこには布を被った何かが置いてあった。
「貴女は下がって下さい」
ここまでグレースを案内してきた使用人を、エレオノーラは下がらせる。そして、地下室にはグレースとエレオノーラの二人きりとなった。いや、ある意味三人か――と、グレースは布を被った何かに視線を落とす。
そのとき、おもむろにエレオノーラが布を取り払った。出てきたのは、グレースの予想通り――死体である。
グレースはその場にしゃがみこむと、冷たい地下室の床に横たわる死体を
死体は魔族の男性だった。恐怖で顔を歪めた状態で絶命している。鋭い刃物のようなもので肩から斜めに斬り降ろされた傷があり、おそらくソレが致命傷だと知れた。
「ずいぶんとお歳に見えますね」
顔中に深い皺が刻まれた彼は、人間に置き換えればかなりの高齢に見えた。
それから、グレースはハッとする。魔族の実年齢は外見からは伺い知れないことを思い出したのだ。
ただ今回は、見た目と実年齢が合致していたようで「ええ」とエレオノーラは頷いた。
「街はずれに住んでいたヨルクという老人です。おそらく、先の大戦からの住人でしょう」
先の大戦というのは、天魔戦争のことだ。これは、人間の有史以前の大昔に起こった、神から離反した
つまり、このご老人は魔族の第一世代目ということか……と考えつつ、グレースはさらに死体を調べた。エレオノーラがわざわざ自分を呼びつけ、この死体を見せているということは、何か理由があるのだろうと思ったからだ。
「おや?この傷……」
「気付かれましたか?」
グレースは老人の傷痕に違和感を覚えた。
「この遺体の傷痕から妙な魔力の気配がすると報告を受けたんです。確かにその通りで、これまで感じたことのない魔力でした。得体が知れませんので、念のため貴女の耳に入れておこうと…」
「これは、まさか……?」
「グレース、何か分かったのですか?」
「しばし、お待ちを」
エレオノーラへ回答する前に、グレースは何度も傷痕に残る魔力の
「伯爵様。この魔力の残滓は聖魔法のものです」
「えっ…?」
エレオノーラは大きく目を見開いた。
「聖魔法って…あの聖魔法ですか?」
信じられないというような表情のエレオノーラに、こくりとグレースは頷く。エレオノーラが驚くのも無理はなかった。
聖魔法は神の
故に魔界では、まずお目にかかることはない魔法なのだ。今やこの魔界で聖魔法を知るのは、魔族の第一世代目くらいか。あとは……。
「どうして、グレースはこれが聖魔法だと判断できるのですか?」
不思議そうに、エレオノーラは尋ねた。
「生前に人間界で見たことがあるからです、伯爵様。二柱教会の聖職者が使用していました」
「生前って……あっ」
そこでエレオノーラは、グレースが生粋の魔族ではなく、元人間であったことを思い出したようだ。
「このご老人は聖魔法をまとった武器によって殺されたのでしょう。しかし、どうしてそのようなものが魔界に……。伯爵様、このご老人を殺害した犯人や凶器について何か情報は?」
「いいえ。何も分かっておりません」
「これと同じような死体の報告はありますか?」
「いいえ」
現状、手がかりなしか。グレースは黙り込んで考える。
この魔界で、殺人なんてものは大して珍しくもない。なにせ、堕天した
にもかかわらず、こうもグレースの心に引っかかるのは、やはり聖魔法の痕跡があるからだった。
本来あるはずのないものが目の前にあるという違和感。まるで、砂を噛んでしまったような、嫌な感覚をグレースは覚える。
「伯爵様、私もこの死体について妙な胸騒ぎを感じます。この件について、もし何か分かりましたら、教えていただけますか?」
「ええ、もちろんです」
「感謝いたします」
グレースがお辞儀をすると、「感謝するのは、こちらの方です」という言葉が返ってきた。
「え?」
驚き顔を上げたグレースの目に、穏やかに微笑むエレオノーラが映る。
「貴女が第七地獄に来てくれたこと、私はとても感謝しています。以前の
エレオノーラが遠い目をする。
確かに、以前の第七地獄は酷いものだったと、グレースも心の中で同意した。今でも治安が良いとはとても言えない第七地獄だが、昔と比べれば雲泥の差である。
地獄は悪の吹き溜まりと言ったが、それでも第一から第六地獄には一応の秩序というものがあった。
アウトローにはアウトローなりの
そして、つい九十年前の第七地獄がそうだった。
怠惰の魔王ベルンハルトが
人間界の国ならとっくに崩壊していただろう。しかし魔界の場合、魔王という圧倒的強者が頂点に君臨しているためか、幸か不幸か国が
「グレースのおかげで
エレオノーラの言葉を聞いて、グレースの脳裏にこの九十年間の苦労が
文字通り、ベルンハルトの尻を蹴っ飛ばしながら仕事をさせたし、改革を反対する魔族が差し向けた何百、何千……いやそれ以上の刺客を返り討ちにした。
「本当に短い間に、よくここまで…」
「九十年もかかりましたが」
「たった九十年でしょう?」
魔族の寿命は、人間とは比較にならない程長い。グレースとエレオノーラでは、時間の流れの感じ方がまるで違うのだ。
こういうとき、グレースは己の根本は魔族ではなく、やはり人間なのだと実感する。
エレオノーラはグレースに好意的な魔族だが、その他の魔族も同様というわけではない。
特に、前時代に富をむさぼっていた保守派の貴族たちに、グレースは
グレースに暗殺者を仕向けてくるのも、大方は保守派の連中である。
「保守派の貴族たちが何と言おうと、私は貴女の味方です。今回の件、引き続きこちらで調査し、結果を報告します」
「どうぞよろしくお願いいたします。伯爵様」
グレースはもう一度、エレオノーラに深く頭を下げた。
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