第3話 魔王城の新人(Ⅱ)
これから、この第七地獄を統治する魔王ベルンハルトに会いに行く。そう思うだけで、ケヴィンの胃はキュッと縮みあがった。
「ううっ……緊張して吐きそう。ていうか、吐く」
青い顔でそう呟くケヴィンに「吐かないで下さい」と冷たく言い放つクラーク。
「でも、クラークさん。相手は魔王様ですよ?緊張しないって方が無理ですよぉ」
半べそをかきながらケヴィンが言うので、クラークは深々と溜息を吐いた。
「ベルンハルト陛下は基本的に友好的で温厚な方ですよ。普通にしていれば、問題ありません」
「そっ、そうなんですか?」
少しホッとして、ケヴィンの表情が緩む。
魔界において魔王というのは絶対的な権力者だ。故に、何となく尊大で傍若無人なイメージを抱いていたケヴィンは、クラークの言葉を聞いて胸を撫でおろした。
それでも念のためにと、小心者のケヴィンは注意事項をクラークに伺う。
「失礼のないよう気を付けますが、魔王様にお会いするにあたって、特に留意すべきことはありますか?」
「特には……あっ!一つありますね」
「それは何ですか!?」
魔王様に対して粗相があってはならない。もしかしたら、物理的な意味で首が飛ぶかもしれない。そう思ったケヴィンは前のめりになって、クラークに尋ねた。
「ところで、ケヴィン君。君は、グレース様のことをどう思いますか?」
「えっ、秘書長官様ですか?」
どうして、魔王様について聞いているのに、ここで秘書長官様の話が出てくるのだろうか。不思議に思いながらも、ケヴィンは思っていることを素直に答えた。
「さすが、たった九十年でこの第七地獄を改革したお方……っていう感じですね。仕事ができるオーラをひしひしと感じました。あと、近くでお目にかかったのは初めてですが、思った以上に美人な女性でドキドキし――」
「あっ。そういうのは、ベルンハルト陛下の前で言わない事です」
「へ?」
ボクは何か失言してしまったのだろうか、とケヴィンは目をぱちくりさせる。単純に、秘書長官様のことを褒めたつもりだったのだが…。
「グレース様を女性として意識しているような発言は控えるべきですね」
「それって、どういう……」
「あ、着きましたね。ここが魔王様の執務室です」
目の前に、重厚感のあるウォールナットの扉がある。クラークがそれをコンコンとノックすると、「はぁ~い」と扉の向こうから呑気そうな声が返って来た。
「陛下。クラークです」
「入って良いよ~」
「失礼いたします」
重い扉を開けると、赤銅色の髪の青年が一人机に向かっていた。
彼が魔王ベルンハルトか――、ゴクリとケヴィンは唾を飲み込む。そして、恐る恐る魔王の執務室に足を踏み入れた。
パラリ……ペタン、パラリ……ペタン、パラリ……ペタン。
室内には単調なリズムが響いていた。ベルンハルトが書類をめくっては判子を押し、書類をめくっては判子を押すという作業を繰り返す音だ。
ケヴィンの目には、ベルンハルトがちらりと書類を
「どうしたの~?もしかして、グレースに俺がサボってないか見てくるように言われた?」
ベルンハルトは悪戯っぽく笑って尋ねる。質問しながらも、彼の手は止まらない。相変わらず、単調なリズムで書類に判子を押していた。
「その通りです、陛下」
クラークが馬鹿正直に答えると、ベルンハルトは「やっぱりねぇ」と肩をすくめてみせた。
「ホント、グレースってば真面目なんだから」
そう言いつつ、ベルンハルトに気分を害した様子はない。
そんなベルンハルトとクラークのやり取りを見て、およそ魔王とは思えないような気安さだと、ケヴィンはかなり驚いていた。
と、ベルンハルトがケヴィンの方に目を向ける。
「そう言えば、そっちの彼。見ない顔だけれど?」
「はい。今日から我々の部署で働くことになった新人のケヴィンです。ほら、ケヴィン」
クラークに
「ケ、ケヴィンと申します、魔王様。ど、どうぞ、よろしくお願いいたしまひゅっ」
緊張のあまり、ケヴィンは舌を噛んでしまう。ベルンハルトはそれにくすりと笑いながら、うんうんと頷いた。
「頑張ってくれたまえ。グレースもクラークも優秀だから、彼らの言うことをしっかり聞いて頼ると良い」
「は、はいっ!!」
クラークさんの言う通り、魔王様は気さくで優しそうな方だ。ケヴィンが安心していると、不意にベルンハルトはこんなことを訊いてきた。
「ところで、君から見てグレースはどういう印象だい?」
「えっ、秘書長官様ですか?」
「うん」
ニコニコと穏やかな笑みを浮かべるベルンハルト。彼の質問の意図がよく分からないケヴィンだったが、思ったままのことを口にする。
「お噂に聞いていた通り、とても優秀な方だと感じました。それから――」
実際会ってみると、思っていた以上に美人だった……ということを言いそうになって、ケヴィンはハッとした。「グレース様を女性として意識しているような発言は控えるべき」というクラークの言葉を思い出したのだ。
それで、ケヴィンが口ごもっていると、ベルンハルトはさらに尋ねてきた。
「それから?」
「えっと…、そんな方の部下になれて光栄だと…」
「うん、そうか。そうか」
相変わらず、ベルンハルトは笑顔のままだ。しかし、なぜかケヴィンにはその笑みが空恐ろしいものに感じられた。
「グレースは多忙だからね。部下として、彼女を支えてやってくれ」
「は、はいっ!」
「ただ、くれぐれも惚れないようにね?アレは俺のだから」
「はい…って、へ?」
急にそんなことを言われたものだから、ケヴィンは間の抜けた顔になる。
そのとき、「おや」とベルンハルトが声を上げ、判子を押す手を止めた。数秒書類に視線を落とした後、ちょいちょいとクラークを手招きする。
「クラーク。コレ、前の枢機院で決定した案だよねぇ?内容がその時と違ってない?」
「ああ、それはですね…」
ベルンハルトとクラークは何やら話し込んでいた。
ややあって、話し合いが終わったのか、クラークは部屋から退出しようとする。ケヴィンは慌てて、彼に続いた。
魔王の執務室を退出した後、ケヴィンはモヤモヤとした気持ちを抱えていた。
魔王様が優しそうで良かった。そう思う反面、あの言葉の意図は何だったのかと振り返る。
魔王様は秘書長官様のことを「俺の」だと言っていたけれど……それって、やはりそういう意味なのだろうか、と。
ケヴィンはそれについて、前を歩くクラークに尋ねようと思ったが、内容が内容なだけに、いきなりは質問し辛かった。それで、あえて違う話を訊いてみる。
「魔王様って、ポンポン決裁の判子を押していましたけれど、あのスピードで書類の内容を読んで把握しているってことですよね?」
あまりにも書類に目を通す時間が短かったため、ベルンハルトは適当に判子を押しているものだと、最初ケヴィンは考えた。けれども、もしそうなら、書類の内容をクラークに確認するようなことはしないはずだ。ということは、あの短時間でベルンハルトは書類の内容を理解できている――そういうことになる。
「その通りです」とクラークは答えた。
「速読術ってやつですか?すごいですねぇ」
「昔は、書類の内容も確認せず、判を押していたらしいですよ。しかしある時、グレース様から大目玉をくらったとか。以来、ちゃんと書類には目を通しているようですね」
「へぇ」
「実際、ベルンハルト陛下は優秀な方です。ただ、やる気がない。それをグレース様が上手くコントロールしていますね」
つまり、グレースの言葉なら怠惰の魔王も聞き入れるということ。やはり、この二人の関係はただの主従関係ではない、特別なものなのだろうか、とケヴィンはまたモヤモヤした。
口さがない者が、グレースのことを「ベッドの上で魔王を操る悪女」と噂していることをケヴィンは知っている。そんなの、保守派の貴族たちが流したデマカセだと思っていたけれど……。
ケヴィンは思い切って、クラークに尋ねてみた。
「陛下と秘書長官様ってそういう関係なんですか?」
「そういうって、どういう意味ですか?」
「それは、えっと……」
ケヴィンは言葉を詰まらせる。何と話を続けていいか分からず困っていると、フンとクラークが面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「陛下とグレース様が男女の関係かどうかは知りませんし、興味もありません。私としては、
「あ、はい」
「ただ、陛下がグレース様に並々ならぬ執着を持っていらっしゃるのは確かでしょう。なにせ、寵愛を与えたのですから」
「寵愛?」
「そう。グレース様は魔王の寵愛を得たからこそ、人間から魔族になったのですよ。私に分かるのはそれでだけです」
そこでクラークは話を切ってしまった。ケヴィンもそれ以上は訊き辛くて、押し黙る。
ただ、魔王様と秘書長官様の間には、やはり込み入った事情がありそうだと、ケヴィンは思った。
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