第2話 噂
翌日、会社でおみやげを配って歩く。今日の半日は、上司への報告と、土産配りで手一杯だった。午後からはちゃんと働かなきゃな。
見慣れたはずの日本人の顔を無性に見ていたくなった。なにしろあの強力な威力を放つ感染症に罹患しても、まだコレと言った薬は開発されていない。特に海外となれば、日本の保険証は使えない。なにげに死と隣合わせだったのだ。
だからこそ、わざわざ愛妻弁当を食堂まで来て広げたわけだが。
そのあとすぐに、背後から黄色い声があがった。
まずいな。あんまり関わりたくない種類の平成ガールズの二人組は、おれが弁当箱を開ける瞬間を狙っていたみたいだ。
「うっわ。おいしそう」
「本当だぁ。あたしたちはこういうのは無理だね」
いくらおなじ部署の後輩といっても、そろって笑い合いながらおれの横に座るのはどうなんだ? 顔、近いからっ。
見ようによっては、おれが彼女たちに囲まれているように見えなくもない。こんな場面を変に疑われたりしたら、ガラス細工のように繊細なカスミを泣かせてしまう。それだけはあってはならない。
「あ、三上さん。さっきはおみやげをありがとうございました〜」
「美味しかったです」
「そう? ちゃんとみんなに行き渡ったか心配してたんだ。女の子はやっぱり甘い物だよね」
「三上さん。決めつけはよくありませんよ」
秒で怒られた。まぁ、女の子じゃなくても甘い物が好きな奴はいるし。おれはしかたなく、表面上の謝罪としてごめんごめんと頭を下げた。
「それにしても、毎朝お弁当を作ってくれる優しい奥さん、あたしも欲しいなぁ」
「あたしもー」
うん? すると、この二人はそういう関係? なのかな? なんだかややこしいな。
「ふっふぅ〜んだ。三上さん、あたしたちが付き合ってるなんて勘違いをしてるわよ」
「あらまぁ。ペナルティが二つ目ね」
「おいおい、勘弁してくれよ」
そう言いつつも、普段はあまりじっくり見ないで食べている愛妻弁当は、出張帰りだからこそのありがたみを感じている。これからはもっとよく噛み締めて食べなきゃな。
ちなみに、ペナルティの三つ目だとどうなるのかを知りたかったが、彼女たちの視線はもう、おれからは離れていた。
「……だよねぇ」
「気の毒っちゃ気の毒だけど、なんかそういうの嫌」
「絶対に許せないよね」
「だって社長、奥さん居るのに」
そこではっと、息を呑んだ。
彼女たちの視線の先には、窓際でぼんやりと外を眺めるアンニュイな女性社員がいた。たしか最近、受付嬢になったはずだが、その経緯がなんとも言えない。
「えーと? なんの話?」
すっかり置いてきぼりを食ったおれは、なんとなく彼女たちの会話に割り込んだ。
「やだ、ちょっと。三上さんてばそういう趣味?」
「ペナルティ三つ目。っていうよりも、人として最低」
「ちょっと待った。きみたちの話をちゃんと聞いてなかったことはあやまるけど、なにがどうなってんの? その、社長がどう、とか?」
語尾はゆるゆると小さくなった。できればこんな噂話に口を挟まないほうがいいに決まっているのだが、おれの知っている噂話が、部下たちの噂話とおなじものなのか、その答え合わせをしておきたい。
おれの将来のためにも。
「オッケー。三上さん、本当のことしか言わないから、彼女に近づいちゃダメですよ」
「今あるしあわせで充分なんですからねっ」
「わかった、わかった。おれも一応、会社絡みのことなら耳に入れておかなきゃって、それくらいの軽い気持ちだから」
「そうですか? ならいいんですけど」
「情報提供のお駄賃として、コーヒー屋さんの期間限定ドリンクをおごってくれますよねっ?」
「ああ、わかったから」
彼女たちは無邪気にやった! とハイタッチをした。
「そもそも、彼女――一ノ瀬 マリカさんは、旦那さんとおなじ建設会社で働いていたんです。小さな会社でしたけど、小回りが利いて、すぐの注文も受け入れてくれるから、重宝していたんです。うちの会社の取引先でもあるし、社長ともよく一緒にゴルフに参加していたみたいだし」
一ノ瀬の顔色を伺いながら、だんだん声をひそめてゆく彼女たちは、それでもこの話をつづけるつもりでいる。
もう辞めないか、と言いたくても、うっかり芽生えてしまった野次馬根性を沈静化させるには、つづきを聞くしかなさそうだ。
つづく
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