倫の道すがら

春川晴人

第一章

第1話 完璧な家庭

「ただいまぁ〜」


 出張で海外から家に戻るまでの三日間、すぐ家に戻ることができず、会社側で手配してくれたカプセルホテルに泊まった。その間に熱でも出てしまったら、完全隔離される。


 もどかしい三日も過ぎ去り、熱も出ず、ようやく懐かしい我が家に帰ることができた。


 家の中は、今日もしあわせの香りが充満している。


「パパ、おかえりぃ〜!! ねぇねぇ、おみやげはぁ!?」


 今日で六歳になる娘のカリンを軽々と抱き上げて、肩の上に乗せる。カリンはそこが定位置だとわかっているかのようにしがみつき、おれがポケットからおみやげの子供用万年筆を取り出すのを楽しげに待っている。


「はい。六歳のお誕生日おめでとう、カリン。約束の万年筆だぞ」

「わぁ〜い!! これで、パパとママとおそろいだね」


 にこにこと笑うカリンの頭をなでると、今でもこの子が産まれた時のことを思い出して、涙ぐみそうになる。


 命の誕生に立ち会ったのは、妻のカスミが持病の薬を断薬してまで頑張ってくれたからだ。


 あの時、カリンが懸命に泣いたあの瞬間。おれは共に泣いた。カスミやお医者さんなどに笑われたりもしたが、これが泣かずにいられるか。


 おかげでカスミは外で働くことが難しくなってしまったが、動画サイトなどに手抜き料理を投稿したり、それなりに楽しんでくれている。


「あなたぁ、あたしへのおみやげは?」


 おれはもったいつけるように、飴色に使い込んだ革のカバンをバッと開いた。


「カスミにはこれを。受け取っていただけますか?」

「ふふっ。よろこんでっ」


 世界に致死率の高いあたらしい感染症がまん延し、海外出張から帰ったら、そのままカプセルホテルに泊まるように指示されるようになって、今年で何年目になるだろう?


 おれは、家族が好きだ。


 おれとおなじ趣味を持つ、妻のカスミが大好きだ。


 彼女との出会いは文具展だった。おなじ万年筆に目を奪われて、なんとなくお茶に誘った。


 カスミは生まれつき体が弱かったが、このおれが驚くほど文房具が好きで、ミニマリスト。装飾品に金をかけるくらいなら、古い文具店でお宝物の万年筆を買うのが好きな女だった。


 どちらからともなく、世界でも有名な超高級万年筆の店に入り、結婚指輪と同時に名前入りの万年筆を贈った。


 指輪なんてすぐに飽きてしまうだろうが、万年筆はそうはいかない。


 彼女が好きそうなインクをブレンドしてもらって、インク瓶にも名入れして渡したが、ここまでして、もし突き返されてしまったらどうしようという不安も少なからずあった。


 もちろん、ここでおれを振るような彼女じゃない。


 どこに貯めていたのか、国内では人気の万年筆を名前入りで贈ってくれたのには、とてもうれしかったし、感動した。


 どんな時も、お互いこの万年筆を離さずにいよう。いつの間にか、そんな暗黙の了解さえできた。でも、悪い気はしない。


 そうしてしあわせな結婚生活はつづき、都心からほんの僅か離れた郊外に土地を買い、広い庭付きの家を建てた。将来的には、双方の両親を呼んで住めるように工夫もしてある。


 庭には譲渡会で縁のあったオスのゴールデンレトリバーと、メスのしば犬を好きに遊ばせている。案外この二人、仲がよくて、しかもメスのしば犬の方がオスのゴールデンよりも強いときている。もちろん普段は室内飼いだ。カスミやカリンの面倒まで見てくれたりもする。なんとも頼もしい存在だ。


 この、絵に描いたような完璧なしあわせ。


 怖いほどの本物のしあわせ。


 おれには、不倫なんてする奴の気持なんて少しもわからないし、そんな人間を軽蔑さえしていた。


 だが、人は変わる。変わってゆくものだ。そう言った父の言葉を久しぶりに思い出し、怖気おぞけがふるうのは、やはりしあわせすぎるからだろうか?


 つづく

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