第3話 噂話のなれの果て

「そもそも、一ノ瀬さんと旦那さんってとっても仲が良くて。たしか、安くても使い勝手のいい万年筆を、名入りで交換しあって、お高い結婚指輪の代わりにしたんですって」


 万年筆、と聞いて、おれはそわそわと一ノ瀬の横顔を伺う。


「ほら、三上さん。そっちを見ないでくださいよぉ」

「あ、あぁ。ごめん。それで?」


 彼女たちが言うには。


 そのすごく仲の良かった一ノ瀬の旦那が、出張先の異国で例の感染症に罹患りかんして、そのままお亡くなりになってしまったとか。事情が事情なため、ご遺体を日本に運ぶことは困難ということで、一ノ瀬が現地まで行ったそうだが、感染力の高さと市民の安全のためとのことで、彼女がたどり着く前に、焼かれてしまったらしい。しかも、遺体は複数あったため、旦那さんの遺骨もわからなかったという。


 悲嘆に暮れた彼女は、その場から立ち去る子供たちの一人が、自分の名前の彫られた万年筆を奪うように持ち去る後ろ姿を見てしまった。


 だが、それを奪い返せたとしても、彼が戻ってくるわけじゃない。


 彼女は泣き崩れたまま日本に戻り、数日の隔離と検査を隔てて自由を取り戻したものの、実際にはすべてを失ってしまった。その孤独から、家の中に引きこもるようになってしまったという。


 後から国名義で、建設会社へと、慰安金が払い込まれたと知ったが、その時にはもう、会社ごと残っていなかったという。


 もともと家族に見捨てられた彼女には行くあてもなく、ローンの残っているマンションから飛び出し、やつれ果てた顔で、会員制のバーで飲んでいるところを、うちの社長が見つけた。


 話を聞いた権田原社長は、それはあまりにもかわいそうだと同情し、仕事とマンションの残りのローンまで支払ってくれたという。


 だが、二人は別の意味でも深く結びついてしまったのだということだ。なんともむごすぎる。


 それは、おおよそ、おれが知っている噂話と大差はなかった。


 なんだか時間を無駄にしたような気持ちになったおれは、彼女たちにドリンク代を渡し、食堂でポツンと一人になった。


 まいったなぁ。そんな個人的な話が、こんなに公にされているだなんて。


 社長も社長だ。いい年してなにをしている。


 空になった弁当箱をバッグにしまうと、ふいに目の前に影が降りた。


「わたしに興味がおありですか? それとも、万年筆の方かな?」


 なんと、一ノ瀬 マリカご本人様ではないかっ。


「そ、そのっ。ごめん」

「事実だもの。ごく一部を除けば」


 彼女の声は、想像していたよりもカサついていた。きっと、たくさん泣きわめいたせいで、喉が枯れてしまったのだろう。


「あなたっ!! 三上さんになにしてるのっ!?」


 部下たちが戻ってきて、一ノ瀬を睨みつける。


「なにも?」


 そう答えると、彼女たちが大事そうに持っている期間限定ドリンクとやらに目を落とした。


「期間限定メニュー。素敵ね」


 放り投げるようにそう言うと、一ノ瀬 マリカは気だるそうに去って行った。


「まったく、とんでもないメギツネだわっ」

「あたしたちのことを期間限定メニューに例えるなんて、嫌な女」


 ああ。と、そういう意味なのか、と思うと、なんだか一ノ瀬が気の毒に感じた。


 立場的に、彼女が社長の子供をみごもるわけにはいかないだろう。


 それでも、なにかにすがらなければ生きられない。


 それはきっと、多くの人間が一ノ瀬とおなじ立場だったら、そうするかもしれないし、しないかもしれない。


 気軽に励ます言葉もないし、そもそも自分なんかに彼女を励ます権利なんかない。


 誰かの不幸は、心の奥に苦く残る。


 自分が今あるしあわせを、絶対に手放してはならないとさえ強く願う。


 人間とは、こうも愚かなのだろうか。


 日本人の顔が見たかっただけなのに、食堂で昼を食べたことを、少し後悔し始めていた。


 なぜなら化粧では隠しきれない一ノ瀬の、まだ鮮明に赤いまぶたを至近距離で見てしまったのだから。


 つづく

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