第5話 回想します。あの頃は。
北の国ノーリンクの西、ウーバウ裂地。その名の通り、不定期に地割れが発生し、底が見えないほど深い谷が生まれることが日常茶飯事の恐ろしい土地。裂け目の底から帰って来たものはなく、それについて噂では、誰も知らない恐ろしい魔物がいるとも、永遠の虚空が広がっているとも言われている。
そんな土地に、魔物の仕業だろうか、恐らく山よりも大きな特級穢具を埋め込むことで、漸く安全を確保しているらしい、ウーバウの枕という、垂直な崖で四方を固めた平らな山がある。それは確かに遠目に見ると、山というよりも枕に見えた。そこから西にあるウーバウの牙や、さらにその果てに向かう冒険者たちを見送る最後の橋頭保こそが、ウーバウの枕の上にあるウーバウ集落である。
現代の伝説ともいわれる一級冒険者、勇者サンドットによって切り開かれたそこは、千人に満たない少ない人口ながらも人々が助け合って生きていた。
そこに、二人目の勇者が生まれた。もう十年も前の話だ。
「ラベルタ! 逃げよう!」
長く黒い髪の、幼い日のレーレルは混乱していた。親友のラベルタは地面に座り込み、大声で泣いて動かないからだ。互いに六歳。隣には犬に似た三級穢具が、大声で鳴き続けている。その視線の先には、燃え盛る森があった。ウーバウの枕が燃えていた。
サンドットによってウーバウの枕から魔物は完全に駆逐されていたが、この日、そんなウーバウの枕を超えて、後に災害級とも称される炎の魔物〈グアンカ〉が、地に落ちた太陽のように熱光を放ちながら移動していた。もしもクエストが発注されていれば、一等を超えて特等クエストだと評されている。
逃げなくてはならない。なのに、ラベルタはわんわん泣くばかり。どんなに引っ張っても動かない。理由は一つ。
「おばさんは大丈夫だから!」
レーレルは咄嗟に噓をついた。ラベルタが泣き喚いて動かない理由は知っている。燃えている方角に、ラベルタの家、否、宿屋があり、その中には彼女の母がいる。彼女の母はラベルタとレーレルを蹴り出し、逃げろと叫んだ。レーレルは理解している。あの宿屋から、ラベルタの母が逃げることはない。最後まで魔物と戦うだろう。だが、火の手はどんどん派手になっている。それが意味するところは一つだった。
「ラベルタ!」
必死で手を引く。だが、杭で繋がれてるかのようにラベルタは動かない。その時、大きな火柱が上がり、遅れて何かが崩れるような轟音が鳴り、地面が揺れる。レーレルの背筋を恐怖が駆け上り、思わず身震いした。焼けた木片が煙を引いて、流れ星のように頭上を飛んでいく。爆発があったようだ。
それは、幼い少女二人にとって、世界の終りのような光景に映っていた。大人たちはいつも言っていた。ウーバウの枕から外は人が住める土地ではない、と。ならば、今自分たちがどこへ逃げようと、すべては決まっているのではないか――そう思った時、空を飛んで行ったはずの木片が、再び森に帰っていくという、奇妙な光景を二人は見た。
「わたしの故郷、焼き払うとはいい度胸だ!」
熱せられた突風が二人の体を舐めつくす。それはラベルタの鳴き声さえ搔っ攫い、森の炎へぶつかっていく。ラベルタが再び目を開けた時、空を無数の黒い線が覆っていた。
「吹き飛ばせ、シャムカディカ!」
二人の前に、一人の女が駆けつける。それは、五年前にこの集落を飛び出した、一人の見習い冒険者の背中だった。彼女は全身を大いに捻り、まるで箒の先のように枝分かれした棒切れを持っている。その枝一本一本が、空を覆いつくす黒い線だと気づくのに、二人はやや時間がかかった。楽団の指揮者のように、体全体を使い、腕を鞭のようにしならせて、女はシャムカディカを振るう。すると、その先の黒い線は、遠くの燃え盛る木々を薙ぎ払い、どんどん遠くに押し出していく。そして、その果てから聞いたこともない悲痛な魔物の絶叫が聞こえた。
「まったく、なんで早く逃げないの」
どれだけ時間が経ったのだろう。ようやく二人を振り返った彼女こそ、ゼゴラ・タナト。レーレル・ルルの兄、リーリド・ルルからシャムカディカを受け継ぎ、ウーバウ集落の二人目の一級冒険者になる女。この時はまだ三級冒険者だったが、彼女のことは、古の魔王を討伐した冒険者の二つ名を以て勇者ゼゴラとして語られることになる。
――ラベルタは、その時の彼女の、村のために戦った、汗をかいて肩で息をする姿を、きれいだと思った。
「レーレル、そろそろ用済みかなあ。殺すか」
顔を真っ赤にし、椅子の背もたれの上で反り返ったゼゴラはそういった。ウーバウ集落の酒場『夢の上』にて、朝っぱらから酒を飲み続け、『弟子のレーレル』が自分の指示のもと、宿屋を修理してから素振り開始して六時間以上経過していることなど、頭の片隅にもない。
「おいおい、そりゃレーレルがかわいそうだろー」
ウーバウの木こり、クーが、野次を飛ばす。
「割に合わん。あいつのお守、めんどくせえ。うるせえし。最悪」
ゼゴラはげっぷと一緒にそう返事する。
「そうじゃねえよ。稼がせてもらってんだろ」
下卑た笑みで、同じく木こりのスキッタは訊ねる。彼もまた、顔が真っ赤だった。
「お前なあ」
非難するように、ゼゴラの声が低く落ちる。その様に、男たちは目を伏せた。それにゼゴラは満足して微笑んだ。
「ホント、そーれーなー!」
がばっと立ち上がりゼゴラが叫んだ。すると男達の顔が、ぱあ、と晴れた。
「ゼゴラ様の奢りに!」
「かんぱーい!」
狩人のヘリブとデル、武器商のイシネ、無職のズズル、木こりの二人に加え、店主さえ声高らかにジョッキを突き上げた。
「悪いよなあ、ゼゴラ様も。クエストの等級ちょろまかして、弟子に稼がせてるなんて」
ジョッキの中身を飲み干して、ヘリブが言う。
「別に? 一等クエストを五級冒険者がクリアしても、何の問題もないんですが?」
ゼゴラもまた、ジョッキを空にする。後ろからやってきた店主が、酒がなみなみ注がれたジョッキを黙って机に置くと、ゼゴラは空のそれを捨ててすぐさま手を伸ばす。
「言ってないんだろ、レーレルに。本当は一等クエストだって」
「当たり前だろ。その差額でわたしが潤うんだ文句あるかい。それにさ、冒険者ギルド規約七の二『師匠が同伴する限り、冒険者のクエスト受注制限は師匠の冒険者証書に準ずる。クリアした場合、報酬に応援手当てがつく』ってね。もうウハウハよ!」
「規約だけはすらすら出てくるんだな」ヘリブはからかうように言った。
「当たり前だろ。金の話だぜ。真面目に覚えるさ。いいかい、理屈を覚えな? 一等クエストの『エルダードラゴンの討伐』を、五等の幼ドラゴン討伐だって教えて、ぜーんぶレーレルにやらせる、それだけでわたしは何の苦労もせずに、差額と手当てでへそくりたくさん。おかげであんたらにも奢れるわけじゃん、ほら、文句言うな、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
すぐさま男たちはゼゴラの掛け声に応じ、酒を煽る。
「そもそもこのルールだって、師匠に有利なのように設定されるんだ。冒険者の弟子なんてもんは、師匠の食い物にされてやっと価値が出るってもんよ」
「やっぱ冒険者ギルドはいいところだな。材木関係のギルドは数も多くて牽制ばっかだし、そもそも政府の監視が厳しくて、うまいルールはなくなっちまった」悔しそうにクーが言う。
「それは、お前たちに力がないからさ。冒険者ギルドはほかのギルドと違ってこの国に一つしかないんだ。対立するギルドがいないおかげで独自のルールは引き放題だし、政府の依頼も独占できる。国が冒険者に逆らおうなんて百年早いわ。山ほどの機密文書と歴代の勇者が揉み消してきた悪行がばれたら、この国がひっくり返るぜ」
誇るようにゼゴラは言う。男たちは羨望の眼差しで彼女を見る。
「でもさあ、レーレル、そろそろ気づきそうなんだよねえ。わたし以外の冒険者に接しないようにしてるし、そうでなくても知り合いの冒険者は黙らせてるけどさ。ちょっと限界っぽい。最近、勉強、なんて言葉が出るようになった。穢具適正も、わたしがイカサマさえしてなけりゃ、とっくの昔に百は超えてるよ。わたしで五百だからね。それだけあれば、レーレルみたいなどんくさい奴でも、二級ぐらいにはなれるさ」
ほんと生意気、とゼゴラは溜息をつく。
「無能の馬鹿のくせに、ちょっとだけ器用になってきたし。マジで邪魔だわ。兄貴と真逆の、鈍感で馬鹿なところが良かったのに」
「じゃあどうすんだ。昔から騙して奪うのがゼゴラ様だろ?」からかうようにイシネが訊ねる。
「だから、代わり作んの。そのために帰って来たんだから」
「お、じゃあ、いよいよか」デルが思わず身を乗り出す。
「ああ。次はラベルタだ。レーレルは殺す。で、代わりにラベルタ連れて、またお金儲けって寸法よ!」
声高らかに、ゼゴラは酒を飲み干す。
「おいおい待て待て、ラベルタはおれが狙ってんだぜ?」やや真剣になってスキッタが言う。彼の言葉に、男達の背が俄かに伸びた。
「じゃあ早く襲っちまいなよ。まだ生娘だろ。なんで今までぐずぐずしてるんだ」
もうあいつ、十六、否、七だろう、とゼゴラは顔を引き締める。
「犬が邪魔なんだよ。この前だって、三級か四級の冒険者を血まみれにしてたからな」
「わお。本当に使ってたんだ、あの駄犬」
「おかげで誰も近寄れねえ。買い物にも連れて行くからな」ズズルが不満を隠さずに言う。
「じゃあ、わたしが壊しておいてやるよ」
「本当か?」
彼らの目に力が籠る。血走っているが、それはただ、酔っているという言葉では済まされない。正真正銘、獣の目だった。
「いいぜいいぜ。その代わり、次わたしがここ来るときは、もっとまともな酒、用意しとけよ? わたしはボロボロに犯された傷心のかわいそうなラベルタを連れて集落を出る、優しいお姉さまってことにしよう」
ああかわいそうなラベルタ、とゼゴラは泣き真似をする。男たちはいきり立った。ラベルタは集落の年ごろの娘の中でも特に目を惹く。日に日に肉付きもよくなって、彼らにとって立派な甘い甘い毒になっていた。
「いいねえ! ゼゴラ最高!」
「ゼゴラ、最高!」
「ゼゴラ様!」
男たちは口々にゼゴラを称える。
「じゃー、設定はねー?」
ゼゴラは一つ咳払い。
「レーレルは修行の最中、ラベルタの番犬をぶっ壊し、怖くなって逃げた。おかげであんたらは心行くまでラベルタを好きにできた。わたしはその間、レーレルを追っかけていたからそれに気づけず、傷心のラベルタとともにここを離れる。勿論、レーレルは殺して捨てとく。公には行方不明だな」
「待て待て、おかわりは? そもそもラベルタがいなくなるのも困る」ズズルが歯を剥き出しにして言う。
「たまに連れて帰ってきてやるよ。嫌がっても無理やりにな。それか、そうだな……レーレルにはやらなかったが、ご希望なら、ラベルタには男をきっちり教えておくさ。最高の使い心地にしてやるよ」
男達から低い歓声が上がる。一人、ズズルだけが不快そうに、静かに酒を煽った。
「いい作戦だろ。三人目が用意出来たら、ラベルタは殺さずにここに置いて帰ってもいい。その代わり、一年ぐらいはくれよ。せっかく仕込むなら、ラベルタにはそっちでも稼がせてもらいたいしな」
男たちは首肯した。その目は、酔っているにもかかわらず、不気味に静かで、落ち着いていた。
「よし、決まりだ。もう少し飲んだら宿屋に戻って、わたしが犬を壊して来る。なに、うまくいくさ。リーリドを殺したときだって完璧だったんだし。レーレルも一緒だ。兄妹揃って同じ場所で始末してやる」
実際に、それは完璧な作戦だった。なによりも、この隔絶された小さな集落においては、口裏さえ合えばどんなことだって隠蔽できる。国から派遣された騎士団も、冒険者ギルドの前には黙るしかないのだから。
唯一の誤算は、ゼゴラへ晩飯のメニューを相談しに来たラベルタが、店の入り口のすぐ傍で、震えながら小さく丸まっていたことだった。
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