第2話 ミレニアム
まだ国が一つだった頃。つまり、千年以上昔に遡る。人類の宿敵であった魔王を討伐したその時から、世界は巨大な牢獄から、偉大な宝箱に変貌した。
悪意すら感じる罠のような地形に、未知の疫病、生き残りの魔族、急激に変化し続ける気候。その全てが人類を未だ内へ内へ閉じ込めるため大いなる意思だったとして、それでも人々は外へ外へ、歩みを止めることはなかった。
特にその最前線に立ち続ける人を、人々は冒険者と呼び、人の世の開拓者として持て囃した。やがて人類は、冒険者のためにギルドを作ったり、支援組織を用意したりと大いに発展していくわけだが……そんな彼らの心を惹きつけて止まないものがあった。
――『穢具』
すでに絶滅した高等魔族の遺した奇怪な道具群。或いは、さらにその前に居た『なにか』の忘れ物とも言われている。人類の魔術の粋を集めても敵わぬ奇跡を起こす不可思議な道具。
冒険者たちは名誉や好奇心、そして人類の未来の為に、未知の危険を覚悟で進む。その姿に、誰もが羨望と、なによりの尊敬を以て彼らを敬ってきた。
彼らこそ、人類の宝であると。
彼らこそ、人類の希望であると。
彼らこそ、人類の夢であると。
彼らこそ、人類の誇りであると。
「おい!」偉大なる四級冒険者、
「女!」ブルガ・ベリゾンは、
「てめえ!」声を荒げ、
「何してくれてんだ!」
と、少女の胸倉を掴んだ。その怒声は二階建ての小さな宿屋『帰り星』のロビーを突き抜けて、天井裏まで届く。外で、犬の鳴き声がした。
「何とは、いかがなさいましたか」
少女はその努めて冷静に訊ねるが、その声は大いに震えており、今は必死で奥歯を噛んで恐れを誤魔化そうとしていた。
「今朝、起こせって言ったよな!」
男は少女をそのまま持ち上げ、息のかかる距離で大口を開ける。相手の息は昨晩の酒と吐瀉物の臭いそのままで、少女は顔を背けたくて仕方なかったが、宿屋の主人としてそれはできない。故に、口を真一文に、黙って聞く。
「はい。昨晩そう伺いましたので、今朝、きっかり七時に」
「嘘つけ!」
男は少女を壁に向かって放り投げた。たかが齢十六の少女。対して四級冒険者の筋骨逞しい男。少女の体は風を切り、壁にぶつかって小さく呻いた。壁が肺の空気を一気に押し出し、彼女は思わず咳き込む。遅れて、頭上にウーバウの山の風景を描いた窓より大きい絵が落ちてきて、ごつん、と嫌な音を立てる。
「あっ」
思わず漏れた苦痛の声に、ブルガは不快感を覚えた。右足を大きく後ろに引き、大きく振ってその爪先を少女の顔面に向かって蹴り上げる。避ける余裕などなく、少女はそれを鼻先から受け、大きく身を反らす。絵画ごと、再び壁に後頭部をぶつけ、一瞬視界が白く染まった。
意識が戻った時、男は少女に馬乗りになり、彼女のブラウスに手をかけていた。はっとして身を守ろうとすると、男の大声が飛ぶ。
「起こすってのはこういうことだろ!」
暴れるラベルタを押さえつけようと、男の腰が大きく動き、彼女は恐怖で身を固めた。まだ服も下着もある。大丈夫だと、必死に、なんとか自身を安心させつつ、パニックに任せて身を捩る。しかし、それで何とかなる相手ではない。相手の体重は彼女の二倍以上。腰の骨も内臓も、相手の重量で悲鳴を上げている。
「俺達冒険者のお陰でなんとか生きてる分際で、まだ抵抗すんのか、このブスが!」
少女の両手首を掴み、広げて床に押し付ける。ブルガの指には五級穢具〈鬼の大顎〉オークアント・リングが輝いている。
「夜だって俺のところに来なかったな! 礼儀はどうした!」
「やめてください!」
「夜中いくら呼んだって出てこねえし、宿屋の女の癖に躾がなってねえ!」
「お願いします、助けて」
「まったく、クエストで忙しいってのに、ド田舎の小娘の教育もしなきゃなんねえってのが、冒険者のつらいところよ」
そういって、ブルガは涎を垂らし、口角を上げた。
少女は足をばたつかせ、なんとか逃れようとするが、まるでピンで止められた標本の昆虫ようなこの状態、覆すことは到底叶わない。そして、仮にを助けを呼んだとして、聞いた者は助けてなどくれるだろうか――すでに、ブルガの大声は外に響いていることだろう。小さな集落とはいえ、聞いていないものなどいないはずがない。それなのに、誰一人として、窓を覗きに来る者すらいなかった。ただ虚しく、犬の吠える声だけがした。
だが、少女にはその声すら遠く聞こえる。耳元で、男の興奮に押された荒い呼吸だけが鼓膜に張り付き反響する。視線は助けを求めるように窓の外に向くが、曇天が覗く。
しかし、その時、暗雲を叩き割るように、窓も壁も砕いて宿に押し入り、ブルガの顔面を蹴り飛ばす者があった。
まるで小さな竜巻が飛び込んできたよう。ごう、と嵐のような音が宿屋全体を大いに揺らし、少女は目を細める。続いて、少女が壁にぶつかった時とは比べ物にならない、ずどん、という派手な音がする。ブルガは壁に減り込んでいた。
「下、とっとと脱いでおけばラベルタのこと楽しめたろうに。順番間違えたね。残念でした。わたしが男だったら、今すぐに後悔で死んでしまうよ」
真っ白な鞘の剣、聖潮剣ブライトタイドが、朝の陽ざしを跳ね返す。真っ赤な長い髪を靡かせて、二十代後半のその女は少女を守るように、ブルガの前に立っていた。
「……ゼゴラ」
少女は、その一級冒険者の名前を口にした。
「ゼゴラ、だと?」
ブルガは壁から体を引き抜くが、その足元は覚束ない。視線すら定まらず、ただ、赤い塊に見える女の方向をぼうっと見つめる。
「酒樽の麗傑、ゼゴラ・タナトか?」
なんとか両足で立ち、改めて、しかと女に視線を注ぐ。ゼゴラは満足そうに赤い髪をかき上げ、そうだ、と短く答えた。そして、足を持ち上げ、靴底のガラス片を、悠長に抜く。もはや、ブルガの姿は視界に入っていない。
「ちょうどいい、てめえの噂は聞いてるぜ」
ブルガは両頬をばちん、と叩き喝を入れる。
「そのブライドタイド、てめえにはもったいねえ! 俺がもらってやる!」
両指のオークアント・リングを、それぞれ押しつぶす勢いでぎゅっと摘み、深く肉に嚙ませる。すると、彼の肘から先が不気味に歪み、ぐしゃりと縦に大きく裂けると、蠍や蟹を思わせる、巨大な鋏に変貌した。
「それ、戻んの?」
靴底から抜いたガラス片を、窓の外に投げながらゼゴラは訊ねた。
「安心しな、戻ったら、そこの小娘ともども可愛がってやるよ。どんな声で泣くか楽しみだ」
ブルガは両腕のそれぞれの鋏を大きく開き、閉じる。内側には小さな棘がびっしりと生えており、その先端から分泌される体液が飛び散ると、宿屋の床をじゅわりと溶かした。
「わたしも、可愛い可愛いラベルタの泣き声は聞きたいけど……」
ちらと、ゼゴラはラベルタを見る。
「ちょっとそれは無理そうだわ」
残念そうにゼゴラはため息をつく。
「はあ? どういうことだ?」
ブルガが不快感を露わにしたとき、彼の頭は再び壁の中に戻った。しかも、その衝撃たるやゼゴラの蹴りの比ではない。多分、頭蓋骨に皹が入った。
――ありえない。
内心、ブルガはそう思った。通常、冒険者は魔物を殺した際、対手の持っていた能力を加護として得ることが多い。もしくは、ダンジョンを踏破した時に別種の加護を被ることもある。そうなった冒険者は本来の肉体の強度や装備の完成度を超えて強力な防御や体力、或いは腕力をふるうことも少なくない。彼も一端の冒険者ではあった。故に、そんな彼にダメージを与えるなど、尋常の攻撃ではない。
「師匠、ふざけないでください!」
ラベルタでも、当然ゼゴラでもない少女の声が、一人混乱するブルガの頭に反響する。恐ろしいのは、今、自分の頭が何かに拘束されていること。巨大な手に握られているようでもあったが、それが不気味に拍動している。ありえないことだが、まるで心臓の中に包まれて、締め上げられているようだった。
「ふざけてなんてないさ、レーレル。わたしは興味がある。ラベルタさえよければ……」
「それが、ふざけてるって言うんです!」
真っ暗な視界の外で、妙な問答がされている。と、さらに頭蓋骨だけでなく、首すら締め上げられ始めた。しまった、と思った時にはもう遅い。ブルガ・ベリゾンの意識は、相手の姿形を認める前に、あっさりと闇に落ちた。
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