第13話 百里魔眼と蛇蝎姫⑦

 時僅かに遡り、美猴王と蛇蝎姫だかつきが部屋を飛び出して間も無く、さておかれた喬狐きょうこ百里魔眼ひゃくりまがんの前に男が現れた。かつて扉があった場所を無言で眺めている。

 目鼻立ちがはっきりしていて、躰もそれに釣り合って固太りのかっちりした肉付き。およそ妖怪の巣窟には似つかわしくない賤しからぬ風体である。尖った顎から鍛え込まれた胸の下まで垂れている真っ黒な髭が、男ぶりを一層と醸して洒落ていた。

 喬狐が黒装束から人間の姿に変化し、戦闘態勢を構えるが、男はそれを石仏の如く意に介さぬ様子で、思惑を孕んだ視線を残し、沈黙のまま踵を返して歩き出した。

 虚を突かれ、固唾を飲みつつ喬狐は百里魔眼の表情を、ちらりと伺う。喬狐の視線を察した彼は、直ぐに目を逸らした。


「奴か」


 間を置かず、鼻筋の通った美貌に獣が宿る。心胆を寒からしめる怖気を横目に百里魔眼の喉が鳴る。喬狐の周りの空気が凍りはじめているのか、ちりちりと輝いている。


「仇は奴でいいのだな」


 ほぅ、と小さく一声だけ応えた。凍てつく殺意と化した喬狐が馬喰ばくうとどこまで張り合えるかは知れないが、巻き込まれては只では済むまい。そぅっと振り返り、逃げようとした百里魔眼の尾羽根を喬狐が掴んだ。


「これから奴を追跡する」


 勝手にしやがれと言葉が喉元まで出掛かったが、飲み込んだ。掴まれた尾羽根が白くかちかちに凍っていたからだ。

 広間に出ると砦の妖怪達が集まって、美猴王と蛇蝎姫の闘いの観戦に興じていた。朝はまだ冷え込む時節だと云うのに、砦の広間では噎せ返る熱気が充満している。


「痛ぇぇ!糞がッ!あぁ痛ぇ!」


 蛇蝎姫の天を衝く怒声が広間に響いた。呼応するように妖怪達の歓声も沸き上がる。美猴王の無事を妖怪達の隙間から横目に確かめながら、大柄な男の背中を追う。馬喰は広間の奥、地下へ通ずる階段を降りて行った。

 こつこつと、躊躇いなく靴音を鳴らして、降りていく馬喰と距離を詰めるでもなく二匹はついて行く。辺りに漂うかびの香りが濃くなってきた。一度も此方を振り返り見たりはしないが、馬喰が二匹の追跡に気付いていない筈が無く、明らかに誘われている。

 階段の幅が徐々に拡がるにつれて闇が深くなってゆく。やがて段が切れた場所に辿り着くと、馬喰の歩みが止まった。突き出た岩壁の一部に置かれた油皿に火を灯すと、腰を曲げて岩壁に出来た狭い隙間に潜り込んで行った。


「砦にこんな場所があったのか」


 百里魔眼が感心したように溜息を洩らした。


「先に進むぞ」


 喬狐が隙間に踏み入った。心底嫌そうな表情で、百里魔眼も後に続く。

 隙間の先は蟻の巣の如き枝分かれした道が多く、馬喰の姿を見失えば、忽ち迷ってしまうだろう。再び陽光の下に出ることは叶わぬ予感が芽生えてしまうほどだった。


 行き止まりに到着すると、先を進んでいた馬喰が、両腕を組み胡座をかいて座していた。瞼は堅く閉ざしている。


「さっさと連れていけ」


 傍らに狐阿こあの姿があった。雑に組まれた竹細工の檻に収監され、子狐の姿で躰を丸めている。馬喰に構わず、喬狐が檻に縋り付いた。怪我の治療を施されているのか手足と尻尾に繃帯が巻かれている。寝息に合わせて背中が動いているのを確認すると、喬狐は緊張の張り詰めた糸が切れたのか、がくりと膝を付く。


「生かしていたのか。しかし、何故」


 百里魔眼の問いに馬喰は答えない。不機嫌そうに首を右に傾げて、骨を鳴らした。


「おい。報告と違えているではないか」


「うるせェ」


 怒気を込めて馬喰が吠えた。感情が荒ぶっているのか。瞳が縦に割れ、爬虫類のものに変化している。勢いに圧された百里魔眼が尻餅をついた。


「美猴王さまと此処から脱出せねば!」


 檻をしかと抱きしめて喬狐が立ち上がった。狐阿が無事ならば、美猴王から授かった策を今すぐ実行しなければならない。涙を拭って、未だに座したままの馬喰と対峙した。


「鰐の精よ。我が弟の件、本来なら死を以て償わせるところだが、今はそんな瑣末にかかずらわって大局を逸しておる場合ではない。いずれ花果山かかざんを訪れよ。腸を引き摺りだして鴉の餌にしてくれよう」


「馬鹿が!ごちゃごちゃと何をぬかしてんだ!余計な悪態はいらねェから俺が座ってやってる間にさっさと去れ!天然馬鹿狐!」


「あぁ!誰が馬鹿だ!」


 百里魔眼が二匹の間に入り、背中でぐいぐいと喬狐をもと来た道へと押し戻した。この二匹は放って置くと本気で無駄な喧嘩を始めかねない。

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