第14話 百里魔眼と蛇蝎姫⑧

 蠍の尾の先には毒針があり、これを使って毒を注入し生物を絶命させる。世界に数多ある神話や逸話の類いにも猛毒を持つ蠍の話はたびたび出てくることは、その猛毒の針が、まさしく足元から兆しなく忍び寄る死の象徴である所以であろう。

 しかし。

 実のところ、神話や逸話により蠍の毒性は過大に誇張された形で認知されているのだ。実際には、ほとんどの蠍の種は大型動物を殺せるほどの猛毒を持ってはいない。その理由は、蠍は昆虫など小動物を捕食する際に毒を使うことがほとんどであり、大型動物にそれを使うのは防御行動で、本来は大型動物との殺傷を目的としたものではないからである。

 故に、蠍の精である蛇蝎姫だかつきが身に纏う甲冑を変形させてまで、自らの頚椎部に尾を形成したのは、猛毒の一撃を見舞う為ではない。

 蛇蝎姫の妖術の正体は、その全身に隙間無く生える棘。目に見えないほどの微細な棘にある。この棘は触れた皮膚を貫いて、体内に張り巡らされる経絡を通じ、標的器官へ運ばれる生命機能を維持する働きをもつ重要な情報伝達物質コルチゾールを直接奪うものである。これを奪われると体内に宿る精気が隅々まで行き渡らなくなり、対象は過大な疲労を感ずるのだ。

 そして、尾の先端に生えた針の吸引力は、刺されても気付かない程のか細い棘の比ではない。

 一刺必殺の構え。天の配剤何するものぞ、持ちうる全てを投入して屠る事こそが、ここまで敵地にて一匹で大立ち回りを演じてみせた強者に対する敬意の表明に違いない。

 対する美猴王は、呼気早く浅く、半ば意識も定かではない程に半死半生の有り様だが、眼前の敵を見据えた瞳に一切の迷いはない。

 その場にいた誰もが、次のやり取りで勝負が決するであろう予感を抱き固唾を飲む。そして息を吐くことを忘失したかのような静寂。


 砦の遥か上空。寝過ごしたお天道さまは山の頂きを目指してゆっくりと昇り始めていた。広場の天井から見える青空では、一匹の大鳶が円を描いて旋回している。ぐんと伸ばした翼で捉えた上昇気流に乗って、高く、高く登っていく。そして、二匹の健闘を讃えてか、然らざれば地上の愚かな争いを嘲笑うてか。大鳶は高らかに鳴いた。

 瞬間。示し合わせしたように、お互いが大地を蹴って突進していた。肘と肘が交差激突する。ちょうど同じだけ両者は後退した。すかさず放った右廻しの蹴りが、またしても両者で交差し、鐘を突いたような鈍い破裂音を鳴らした。

 蛇蝎姫が体を捻る。空間を裂いて伸長した蠍の尾針が美猴王の腹に突き刺さった。勝利を確信し、相好を崩した蛇蝎姫の首に後ろから何者かの腕が絡み付いた。

 猿。紛れもない猿の腕が蛇蝎姫の首を後ろから締め付けている。甲冑が在れば、しかし、尾針を伸ばした今、首を護るものは何もない。即座に首の骨がを圧し折る力は無くとも、気道を確実に絞めている。

 突如現れた猿の正体は美猴王が自ら噛み砕き先程吐き捨てた奥歯の成れ果てであった。美猴王の石化復活と混世魔王こんせいまおうの死体を操る妖術を融合した有形的存在のある分身術の賜物である猿は不完全に意志を持たず、ただ一つのみの命令を実行する傀儡に過ぎないが、故に自身は殺気を孕まぬ為、奇襲にこそ適していた。

 眼を白くした蛇蝎姫の両手が虚空を彷徨っていた。胡乱に霞んだ景色の先に、愛しげに厭らしく嘲笑う美猴王の面がある。


「美猴王さまッ!鰐の化物から狐阿を救出いたしました!弟は無事にございます!」


 喬狐の声が広場に響いたと同時に、蛇蝎姫が陶酔の表情のまま頭から崩れ落ちる。成り行きを見守っていた妖怪達は四分五裂の歓声と怒号を上げ、火事場のような騒ぎが始まった。


「狼煙を上げよッ!」


 舞台役者の如き大仰さをもって美猴王が吠えた。すかさず喬狐は乾燥させた豺狼の糞と枯草を混ぜて造った狼煙玉を松明に焚べた。



 ほぼ同じ頃、坎源山こんげんざんの砦、風穴の前で門番をしていた井守と家守の精は先に広がる樹海の不穏に気付いた。煙が次々と立ち登っている。樹木が次々と薙ぎ倒され、樹海の鳥が騒いでいた。

 招かれざる者の大群を連想させるその事象の正体は、実は砦の狼煙に気付いた牛平ぎゅうひれが球体になって樹海で力いっぱいに暴れ回っているだけなのだが、遠く山肌から観察している門番がそれに勘付く由はない。


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