第12話 百里魔眼と蛇蝎姫⑥

 一絡げに組み合う二人は、木炭が爆跳したかのような勢いで混世魔王配下の妖怪達が屯う広場に滑り込んだ。 

 美猴王の延髄を狙った上段の廻し蹴りを、蛇蝎姫だかつきは、風に舞う落葉の如きしなやかな後方宙返りで躱す。着地の反動で後方に跳ねた蛇蝎姫の左の頬が追撃の右拳で深く抉られた。

 美猴王の拳の連撃が、彼女の身に着けた堅固な甲冑など、まるで取るに足らずと言わんばかりに次々と放たれる。

 いつとは無しに、妖怪達が遠巻きながらに円で囲んで二匹の闘いを観ていた。蛇蝎姫の防御を貫いて打撃が入る度、歓声が沸く。

 初めに片膝を付いたのは蛇蝎姫だった。だが闘志が尽きた様子はまるで無い。鋭い眼光は以前に増して赫々としている。不敵な笑みが口角に浮かんですらいた。蛇蝎姫の不遜な態度を見て、美猴王は初めて肩で息する己の異常に気が付いた。額に汗の玉が、びっしりと浮かび上がっていた。指先が震え、拳が全力で握り締められない程に疲労している。

 膝を付いた蛇蝎姫の様子を見ながら、間合いを詰めないようにして円を描いて歩き出す。


「早く立てよ」


 手招きで挑発すると、蛇蝎姫は膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。脚の震えがあるようだ。先刻の打撃は確実に効いている筈だ。

 蛇蝎姫が、さながら舞踏の誘いを求めるように片手を挙げて近寄ってきた。お互いに指を絡めて、手四つの力比べが始まる。観客一同から一際大きな歓声が沸き上がった。

 ずしりとした彼女の腕力を全身に感じる。華奢な少女の躰から発する膂力とは信じ難い。体格で勝る美猴王が明らかに押されていた。耐えきれず今度は美猴王が両膝を付く。ゆっくりと力を蓄えるように後方へ振り上げた蛇蝎姫の脚が、美猴王の脇腹付近を薙いだ。肋骨の損傷が免れない一撃に防御も出来ず、悲鳴を上げる。両掌を離そうとしても、彼女はそれを許そうとしてくれない。さらに一蹴。続けて一蹴。全く同じ位置に蹴りが入る。

 美猴王が躰を後方に大きく反らせた。勢い良く自らの額を蛇蝎姫の顔面にぶつけた。全力の頭突きを喰らった蛇蝎姫が、苦悶の表情で繋いだ手を離す。鼻孔から夥しい血液が噴き出した。可憐さと端正さを絶妙な均衡で兼ね備えた彼女の顔が、憤怒で歪んでいる。


「痛ぇぇ!糞がッ!あぁ痛ぇ!」


 蛇蝎姫の天を衝く怒声が広間に響いた。美猴王は素早く起き上がろうとするが、下半身が重くて動けない。四つん這いの体勢で胃の腑の中身を吐き出した。何里も全力疾走したかのような疲労が身体中に纏わりついている。呼吸が灼けるようだった。

 容赦無く無防備な腹を蹴り上げられた。

 躰が宙に舞い上がり、放物線軌道を描いて観衆の真っ只中に落ちた。


「おぉ!魔王さま!何とおいたわしや」


 落ちた先は、大きな牙猪の妖怪の背の上だった。体躯よりも巨大な牙猪の顔面を持ち、甲冑を着込んだ躰から生える手脚は体躯と不釣り合いに短い。正しく異形の怪物だった。


「これ以上の狼藉は、蛇蝎姫さまと云えど、この土蹴どしゅうが許さぬ。地を走る雷神の一撃。とくと味わえぃ!」


 牙猪の妖怪は短い片足で地を、ざっざっと前掻きを始めた。声高らかに叫ぶ。


猪雷神走いのらいじんそう!」


 叫んだ拍子に背に載せた美猴王をころりと落としてしまった。だすだすと地面を踏み鳴らし、牙を突き出しての突進攻撃が蛇蝎姫に迫る。が、その激突は片腕一本で止められてしまった。


「ここじゃあまるで助走が足らんだろう。阿呆が」


 嘲罵し、土蹴の熱く濡れそぼる鼻先をそっと撫でる。土蹴の大きな鼻腔から熱のこもった息が吐き出される。短い脚が、さらなる前進を求めて地を掻いているが、既に大きな黒眼をぐるぐると廻している。もはや意識を失って倒れ臥すのも時間の問題に見えた。

 やはり蛇蝎姫には何か秘密がある。妖術には違いないのだが、実態がいまいち掴めない。

 嵐のように呼吸が弾んでいた。頭の中に腐った泥土でも詰まっているかのように、意識が薄い。


「あぁ、面倒臭い」


 土蹴が崩れ落ちると同時に美猴王が呟いた。

ぺっと血と奥歯が混じった唾を吐くと、拳を強く掌に叩きつけて、蛇蝎姫を睨みつけた。

 対峙する蛇蝎姫は鼻を指で押さえて、気道を通す為に、勢い良く詰まった鼻血を噴き出させる。


「ぐちゃぐちゃ考えるのは得意じゃねぇんだ。お前が何してんのか理解できねぇが、要するにこっちが倒れる前に潰してやりゃあいいんだろ」


 ぷっと、蛇蝎姫が吹き出した。けたけたと頭を抱えて笑い出す。


「お前が大将じゃないことはな。薄々判っていたが、こうも違うと。もう、少しは取り繕うとかしろよこの阿呆が。こっちの大将はな。気持ち悪いほど、ぐちゃぐちゃ考える変態なんだよ」


「知ってるよ」


 ふん、と鼻を鳴らして美猴王も笑う。

足元では先程吐き出した奥歯が石化していた。

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