第9話 百里魔眼と蛇蝎姫③

 ただただ、指の隙間を抜け落ちていく。

 失って初めて其の物の価値を見い出し、否応なしに理解を突きつけられる。月並みな言葉だが、それは真理だ。繋がりもそう。巡り合わせは羽根のように軽く。後ろ髪の無い喪失は耐え難く重い。

 牛平ぎゅうひれが、坎源山こんげんざんから一人逃げ帰ってきた。彼の報告を聞いた喬狐きょうこの狼狽えようは筆舌に尽くし難いものであった。

 茫然自失。間を置いて、美猴王に跪き、喬狐は言い放った。


「私が狐阿を救いに向かいます」


「駄目だ」


 美猴王は即答した。すぐに此処を飛び出さなかった事は称賛に値する。だが今の喬狐に成せることなど何一つ在りはしないだろう。

 彼女は眼尻に涙を湛えて今一度懇願した。


「美猴王様!どうか!どうか私に命を!」


「駄目だ!」


 困惑極まる表情、定まらぬ視点は怯えているようで笑顔にも見える。美猴王にしても、己が肋骨の尖端が今にも臓物に喰い立たるのではないかと感じるばかりに胸が締められる想いだった。

 責は自分にある。狐阿の進言を聞いてから、頭の隅に霞めさせた考え。それを秤にかけて、手下の身の危険を選んでしまった自分に責があるのだ。


「お前らの生命は俺のものだ。お前がもし勝手に坎源山に行くと云うのなら、もう何処にもお前らの帰る場所はないと思え」


 喬狐が頭を垂れた。納得など無いだろう。肩が震えている。美猴王は掌で額を撫でると深く溜息を吐いた。誰にも、自分にしか届かない呟き。自戒を交えて、内なる悪魔を呼び出す。









「たかが臣下を一人亡くしただけで、この荒れ様。失望したぞ、私よ」


 暴風吹き荒れる絶崖の上、混世魔王は華麗な装飾が施された卓を前に、椅子に座って其処に居た。背後の崖っぷちから望む景色は険しく暗黒で、底の深さは伺い知れない。

 混世魔王は強風を意に介す素振りもなく、卓上にあった問香杯を片手に茶の香りを愉しんでいた。


「教えろ。お前の手下の事を洗いざらいだ」


「おやおや」


 口許に厭な笑みを作る。


「私に同腹を売れ、と」


 茶杯を傾けて、ちらりと美猴王に眼を向ける。涼し気な表情で変わらず厭な笑みだ。まるで美猴王の心中など掌の上だと言わんばかりの態度だった。


「頼む。この通りだ」


 美猴王は膝を地に付けた。悔しさで歯が軋む。しかし、砂粒ほどでも狐阿こあが囚われの身で生存している可能性があるなら、なんと云われようとも。


「私の姿で、惨めな真似を晒すな」


 呆れたように溜息を吐き、顔を上げる。が、直ぐに微笑みを作ると椅子から立ち上がった。指を口許にやり、何やら思案している。


「条件がある」


「なんだ」


「まず、情報はくれてやろう。牛の坊やが言っていた鰐の怪物の名は馬喰ばくうと云う。口は極めて悪いが、性質は高潔な武人そのものだ。若い雑魚妖怪を無闇に咬み殺しなどしない。本気ならば狐小僧や牛の坊やなぞ、悲鳴を上げる間も無く、殺られていただろうな」


 息を吐く毎に躰の力が抜けていく。悪魔の囁きを信じたくない。しかし、此奴の語る甘美な希望に躰は正直に安堵仕掛けている。辺りに吹き荒れていた暴風が少しずつ収まってきた。


「良かったな。十中八九。狐小僧は生かされているだろう。だが」


「だが、なんだ」


 極めて不愉快そうな表情。眉間に皺を寄せ、混世魔王の語りが止まる。暫しの沈黙の後、硬く閉じられた口が再び動きだした。


「私の配下には危険な奴が居る。蛇蝎姫だかつき。此奴は危険だ。軽率で愚か、荒唐無稽で無茶苦茶で、とにかく何をやらかすか知れない。私の配下を割合で表すならば、信奉が六、恐怖支配が三。そしていつの間にか居付いた奴が一。この一の中に蛇蝎姫も居る」


「ぐずぐずしてると囚われの狐阿が、其奴に殺られるって事か」


 うむ。と混世魔王が頷いた。品の良い所作で椅子に腰を掛ける。長い脚を組み、髪を掻き上げて、ふんっと鼻を鳴らした。


「あの馬鹿は私以外には留められぬだろうからな」


 美猴王は、地に手をついて立ち上がる。一筋の光明を絶やす訳にはいかない。風はいつの間にか止んでいた。


「慌てるな。策をくれてやる。条件を守ると誓えば、知恵を授けよう」


「条件とは何だ」


 どんっと拳を卓を叩きつけて、椅子から身を乗り出した。人差し指を美猴王の眼前に突きつける。


「誓え。二度と鼻をほじるな。鼻くそを指で弾いて飛ばすな。猿から採った蚤を喰うな。人前で尻を掻くな。笑うときに意味もなく手を叩くな。獣の糞の匂いをいちいち嗅ぐな」


「わかった」


「待て、まだあるぞ」


「まだあるのか」


 混世魔王は次々と条件を提示した。

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