第10話 百里魔眼と蛇蝎姫④

 乳白色の夜明けが闇を溶かし始め、雨滴と見間違えるほどの大粒の霧が、坎源山こんげんざんを包んでいた。

 目に見えて怯えている牛平ぎゅうひれと対照的に喬狐きょうこの覚悟は見事なものだった。寸分の揺るぎがない決意が眉の辺りに集まっている。蜻蛉返りの如き美猴王の望外的な提案に、初めは驚きと喜びと困惑とを綯い交ぜにした素っ頓狂な声をあげていたが、故郷に近付くにつれ、確固たる決意が芽生えてきたのだろう。それは一矢報いるだとか復讐心のような、いずれ後悔に向かう後ろめたいものではなく、希望に向かう確かな意思が、矢尻となって彼女を突き動かしているに違いなかった。


「此処らで始めるか」


 美猴王が喬狐の眼を見た。喬狐は頷くと、両掌を合わせて眼を閉じた。聞き覚えの無い言語を短く発すると、喬狐の躰は闇夜の鴉模様を思わせる黒装束へと変貌を遂げた。それは、あの日、混世魔王が纏っていた装束と酷似していた。

 美猴王が黒装束の袖に腕を通す。牛平が感嘆の声を漏らす。姿形は完全に花果山かかざんに現れた混世魔王そのものと成った。


「兄貴だよねぇ」


「たりめぇだろ」


 語り口調は美猴王だった。耳許に微かに喬狐の諌める声が聴こえた。成り済まして砦に侵入する案は美猴王の中に棲む混世魔王自身の発案だが、第一の問題は、美猴王の気性だった。物真似など上手にこなせるほど、利口なお猿ではない。


「お前は此処で待っててくれ。夕刻になっても合図がない場合は」


「ない場合はどうするだ」


 うーむ。と、思案に暮れる体で、美猴王は顎を擦る。頭の中の白紙をしげしげと眺めるような空虚さが口をついて出た。


「逃げるしかないんじゃあないか」


 辛そうに牛平が俯向く。美猴王は牛平の頭を優しく撫でると、少し嗤って歩き出した。


「まぁ、心配すんな」






 坎源山こんげんざんの中腹に混世魔王の砦、ぽっかりと口のように開いた天然の風穴があった。風穴の近くに石槍を持った妖怪が二匹立って居た。美猴王の二廻り程に大きな体躯。話にきいた砦の門番役をしている井守と家守の精だろう。


「ご苦労さん」


 美猴王は二匹の間を、手を挙げて通り過ぎた。何か奇異な物を見た表情で、お互いを見て首を傾げていた。びりびりと黒装束から喬狐の緊張が伝わる。呼び止められないか不安はあったが、此処まで青天白日の身で、のうのうと歩めた事は何より疑いない証拠だろう。


「魔王さま!」


 風穴を少し進むと、明らかに自然に出来たものでない岩壁を滑らかに削った通路に出た。これも何らかの妖術だろうか。曲がりくねる通路に妙な明るさが保たれている。

 通路の先から、甲高い叫びを上げて、昼隠居ひろかくろふの精が、ぴょこぴょこと近寄ってきた。爪先に特徴的な猛禽の爪は見えず、躰を左右に揺らして器用に歩く様はなんとも奇妙に見える。翼はあるが、太やかな体躯の為にとても翔べるようには思えない。


「ご帰還をお待ちしておりました。さぁさ。どうぞ此方へ」


 誘われるまま昼隠居の精と通路の先へ進む。彼の特徴は混世魔王に聞いたままだが、未だ確証がないので、こちらから伺う事は出来ない。


「砦は安穏無事そのものでして、魔王さまの留守中に数名の離脱こそありましたが、まぁ、その」


「それ問題大有りじゃん」


 何処からか、際どい衣装の、否、裸同然の中性的な少年が現れた。花園の様な咽る香りを漂わせ、発する声は刀葉林の嬌声を連想させる艶やかさがあった。何らかの花の精だろうか。


「魔王さま!おかえりなさい!」


 懐っこい仕草で少年が腕を絡めて密着してきた。昼隠居の精は、少年を窘めようと慌てていたが、少年は聴こえていない素振りで美猴王の腕に頬を擦り付けた。

 何とかして昼隠居だけと話せる状況にならなくてはいけない。せめて表情は崩さぬように、且つ多くを語らぬようにと美猴王は細心していたが、少年の発する香りに思わず咽る。


「ねぇねぇ。旅のお話聞かせてよぉ。閻浮提えんぶだいを横目に南贍部州なんえんぶしゅうの手前まで見てきたんでしょう」


 少年が何を言っているのか理解出来ない美猴王は相槌を打つこともままならず黙り込んでしまった。


北恩ぺおんよ。魔王さまは長旅でお疲れのご様子。控えておれ」


「えぇー」


 北恩と呼ばれた少年は心底残念そうな表情で口をへの字に結んだ。しかし、絡めた腕を離す気は毫もないらしい。


「おぉ、そうだ!先刻、蛇蝎姫だかつきさまが、北恩。お前を探しておったんだ!」


「うぇぇッ!何それッ!」


「はよう行ってこい。おぉ、今しがた砦の外に姿が見えるぞ。はよ行けい」


 北恩は、悪口雑言をぶつくさと呟きながら今来た道を折り返して行った。さぁさぁと昼隠居が先へ進むよう促す。

 美猴王が思い切って訊ねようとすると、無言のまま、鋭い目配せをして、其れを遮った。

 通路の奥から風の流れを感じる。開けた場所に出ると、其処には天井が無く、大きく渦を巻いた濃い霧が、天に蠢いていた。広間のあちこちから此方を伺う気配がある。


「混世魔王さまのお戻りだ!」


 昼隠居の声にざわめきが起きる。怪物の姿から人に近い姿のものまで多種多様な妖怪が姿を見せた。概して敵意は感じない。跪く者さえ居た。表情を変えないように慎重に視線を走らせたが、鰐の怪物は見当たらない。


「混世魔王さまはお戻りになられたが、大層お疲れだ。暫くご自室に籠られるが、押し掛けたりせぬように。特に蛇蝎姫さまが来たら皆でなんとか追い返すのだ」


 周囲を牽制しながら、昼隠居が美猴王の背中を急かすように押した。粗野な風穴の砦に、おおよそ似つかわしくない赤く派手な装飾が施された扉の前に連れて行かれる。

 扉の前では異国の衣装を着た猫が、胡座をかいて座して居た。美猴王の膝小僧程の身の丈ながら、厳かな佇まいは辺りの空気に重さを与えたかのような、徒ならぬ雰囲気を身に纏った猫である。両眼を開くと、美猴王の顔を一瞥だけし、ゆっくりと立ち上がると、静かな所作で去って行った。

 扉の中、昼隠居が壁に掛かる行灯に火を灯すと、豪奢な調度品に飾られた室内の姿が浮かび上がった。如何にも混世魔王が好みそうな威圧感の在る造りだ。


「此処でなら誰にも聴かれますまい」


 昼隠居が安堵の吐息を洩らした。

 しばしの沈黙。腹の探り合いと呼ぶには、些か緩和した空気がお互いの間にあった。


「えー、まず何から伝えましょうか」


「あんたの名を聞かせてもらおうか」


「私は百里魔眼ひゃくりまがんと申します。花果山であった事は全てこの魔眼で観ておりました。貴方さまが魔王さまを飲み込んだ事も、坎源山こんげんざんに訪れた理由も知っております」



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