第8話 百里魔眼と蛇蝎姫②
地に伏す
しかし、警戒して後退すれば牛平を見殺しにすることとなる。逡巡の暇は既に無い。
そして牛平の地点に到達する数歩手前。鰐の牙が狐阿の左脚を捕えた。そのまま鰐の咬合力に引かれ、前のめりに倒れ込む。
「牛平ぇぇぇッ!」
全身が、どっぷりと沼に嵌ったような錯覚だ。否、事実、雑草の根の網で堅く締められた樹海の地面を指で掴む事が出来ない。抵抗なく地中に引き摺り込まれている。
想像通りの窮地だが、核心を得た。
鰐は、目で距離を捉えて襲って来るのでは無い。予測では、あの地点での攻撃は無理だ。精度が正確過ぎる。
人差し指一本の細く鋭い出力で冷気を発する。牛平の丸い背に、寒さではなく、鋭い痛みを感じる強さで。
「うわぁッ!」
牛平が飛び起きた。状況の全てを把握は出来ないだろうが、伝えなくてはならない。
「振動だ!地を揺らせ!」
そう叫ぶと、狐阿は地面に飲み込まれた。
残された牛平は状況が飲み込めずに、辺りを見回して狐阿の姿を捜した。自らの息遣いが、ただただ喧しい。こうして、今にも鰐の怪物が牙を剝いて迫ってくるだろう。妄想だけで心臓が破裂しそうだ。狐阿は何と言っていたか。意味は解らない。だが狐阿が言うのなら。
「おいらのやれる事はこれだけだ」
躰を丸めて、前転。
連続で回転し、ぐんぐんと速度を上げる。摩擦で土煙が舞い上がる程の高速回転で八の字を描く。やがて周辺で最も高い櫟の木に狙いを付けると、回転力のみで幹を垂直に昇る。櫟の堅い枝をものともせず、破壊を繰り返しながら登頂し、勢いそのままに空へと跳び出す。最高速に到着した回転力でもって、今度は地面を目指して落下した。雷の如き勢いで、地表に激突する。
「痛えぇぇ!」
悲鳴を上げて頭を抱えたのは、地面に激突した牛平ではなく、鰐の怪物だった。目が赤く充血し、苦しんでいる。
鰐は暗く濁った水中でも見通せるように、瞬膜と呼ばれる第2の薄い瞼を持つが、完全に暗闇となる土中では、それも役に立たない。では、鰐の怪物は、如何なる感覚器をもって獲物の位置を把握していたのか。それは頭蓋への振動。頭蓋から内耳の管に伝わる骨伝導で地表の振動を感知していたのだ。
牛平の動きを察知しようと集中していたところへ、突然の激震に感覚器を痛めつけられた鰐は、土中に潜行する妖術を解いて、地面へ現れた。
牛平は狐阿の腕を肩に掛けて、狐阿の躰を引き摺りながら、鰐の怪物から距離をとった。蔦を巻き付け、樹木の枝の上へ引き上げる。身を隠すにしても、地面に触れていてはいけない。とにかく狐阿の負傷が酷い。噛みつかれた左脚は、走るどころか歩く事すら難しそうだ。
鰐はこのままやり過ごすとして、二人で
「たまげたぜぇ。ここまでしてやられるとはよぉ」
樹木の幹の内側から鰐の声が聴こえた。
見当違いは、恐らく意図的に仕向けられていたのだろう。奴が使っていたのは土中にのみ潜行する妖術ではなかったのだ。
「悔しいが完敗だ。だが、どちらかだけでも生きて戻らなくてはならない。だから二人で来たんだからな」
虚ろな瞳で狐阿が呟いた。しかし、口許には薄く微笑みがある。
「何を言ってんだ狐阿。何を」
「お前が役目を果たせ牛平。ありのままをお伝えするのだ」
狐阿が牛平の躰をそっと押した。力無く落下する牛平が最後に視たのは、狐阿の笑顔と、彼の背後で大きく開かれた鰐の顎だった。
「姉上。どうかお赦しを」
牛平が、ようやく逃げ延びた花果山では、春の形見を追いやるような雨が降っていた。まもなく蛙の始鳴の時節だったが、珍しく強く冷たい雨が降っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます