【第一章・第三十三話】ドクトリナ・プルデンス
そもそも、その人物がこの場から去る意味はあったのだろうか。
考えられる理由としては、この騒動に巻き込まれたくなかったか、それとも……、
「正体を、隠しておきたかった……?」
「そう考える方が合理的だろうな。魔力の痕跡をこうも見事に消されては、この魔力の主をたどることができぬのではないか?こういった微細な魔力を感知するのは、ドクトリナ殿の専門だが……おそらく、彼でも難しいだろう」
「へえ……? ルージュは、どうやら僕の実力を甘く見ているようだ」
軽やかな足音が、だんだんこちらへ向かってきている。その音の主は、弾むような声を抑えきれていない。
「まだ幼き少女一人を相手に、僕たち全員が集まる羽目になるなんてね」
皇国ウィンクルム魔法医師団長であり、第三皇子の直属である騎士団を纏め上げる凄腕の錬金術師。『国家資格を持った、アストノズヴォルド皇国で最も優秀な研究者』。
「貴方が、ドクトリナ・プルデンス様ですか?」
「僕のことを知っているのかい?君のような者にも知られているとは嬉しいものだね。……おや?」
ドクトリナ様はこちらを覗き込みながら、心底驚いたような顔をした。
「君は……もしや、あの……?」
その表情の意味を瞬時に正しく理解したわたしは、彼への警戒をさらに高めた。
___わたしには、誰にも明かしてはいけない秘密がある。
もしもそれが露呈してしまえば、どんなに悲惨な運命をたどることになるのか、わたしには想像もつかない。この世界で、わたしとお師匠様だけが知る秘密。
『これは例え話だが……私はもう死んでいる、と言えば、ティアはどうする?』
昨日、お師匠様はそうおっしゃっていたが、ある意味ではわたしも、もう死んでいるのだ。正確には、死んだことにされた者。
なにはともあれ、それがたとえ、皇国四大騎士団の団長を務めあげる者であったとしても、わたしの正体を明かすわけにはいかないのだ。わたしはドクトリナ様の目を正面からじっと見つめ、堂々とした態度で言葉を紡いだ。
「なにをおっしゃりたいのかは分かりませんが……わたしは、ドクトリナ様が存じ上げているような者ではございませんよ?」
無垢で純粋な少女を脳内に浮かべながら、必死でその真似をする。正直、こんな拙い嘘に騙されてくれるような方ではないと重々承知しているが……本当に、バレるわけにはいかない。
「……そうかい、それは失礼したね。かつて親しくしていた方に、酷似していたもので」
「えー、ドクトリナってば、そんな人いたの!?」
「ああ。……もう、亡くなってしまったのだけどね」
そう言って、そっと瞼を落とした彼は、とても悲しげな顔をしていた。
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