【第一章・第二話】お師匠様とわたしの暮らし



 微かに、甘い香りがする。


 濃厚なバターと芳醇なカカオ、上品な珈琲。


 ああ、これはもしかして。



「ん……」



 ふと、意識が浮上する。


 寒さの厳しい冬が過ぎ、もう随分と暖かくなってきた。


 心地の良い春の日差しで穏やかに起床したわたしは、寝ぼけ眼のまま手探りでそれを探す。


 自分の隣で眠る、優しい師の体温を。


 しかし、いつもはそこにあるはずの熱が一向に見つからず、思わず私は目を見開いた。



「お師匠、様……?」



 布団が冷えている。ということは、いなくなったのは数分間のことではないのだろう。


 普段、お師匠様はわたしよりも先にお目覚めになるのだが、昨夜のような状態で共に眠ったときは、昼過ぎぐらいまで眠ってしまわれることが多い。


 話を聞く限り、以前まではまだ朝とも言い難いような時間に起きて鍛錬に励んでいたようだし、体調を崩してからは眠っている時間が増え、自ずと起床の時間も遅くなっていったのだという。


 わたしは急に不安になってベッドから跳ね起きた。嫌な汗をかきながら、扉に体当たりするかのように勢い良く寝室から飛び出す。


 その瞬間、寝室でも感じた、濃くて甘い香りが一気に鼻腔を通り抜けた。



「わっ!?…っ、ティア……?」

「お師匠様……!」



 驚いたような表情でこちらを見つめる柘榴の瞳に、安堵の声を洩らす。



「おはようございます、お師匠様。今日は早くお目覚めになられたのですね」


「おはよう、ティア。そんなに慌ててどうしたんだ?」


「起きるとお師匠様がいなかったので、てっきりお師匠様になにかあったのかと__」



 わたしの言葉に滲んだ不安の色を感じ取ったのかして、お師匠様は綺麗な白銀の髪を揺らしながら、にこやかに笑う。



「ああ、心配してくれていたのか。実は、昨夜のお礼に月華堂へ行ってきたんだ」


「月華堂___もしかしてお師匠様、皇都に行ってきたんですか!?」



 見覚えのある紙袋は、わたしが幼いときからよく食べていた店のものだ。


 パンと焼き菓子が、とにかく美味しいお店。


 店の名の通り、薄青の紙袋に描かれているのは、大きな月と可憐に咲く華。


 お師匠様に出会ってからは、ほとんど城下町へ出向かなくなった。わたしはあの賑やかな雰囲気が苦手ではないのだが、お師匠様はそういった場所……特に、皇城周辺は絶対に近付かない。


 はっきりとした理由を聞いたことはないのだが、以前遠回しに尋ねた際に上手くはぐらかされてしまったので、あまり触れられたくない話題なのだろう。誰だって、聞かれたくないことくらいある。


 月華堂は、城下町の中でもかなり皇城に近い区画にあるのだ。なので、わたしがその紙袋を見るのは随分と久しぶりのことだった。


 だが、わたしのせいで無理やり皇都へ向かうことになってしまったのなら、少し申し訳ないと思ったのだが____。



「いいや?まだ眠っているティアを一人にするわけにもいかないからな。魔導具で出した人形を操って購入した」



 わたしは、お師匠様が魔導具店の店主だということをすっかり忘れていたのだった。

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