【第一章・第一話】無期限の奉仕



 傍に居たこと。ただ、あの御方の傍に居られたこと。


 たとえ証など無くとも、それだけで満足だと思っていた。


 ああ、なんて幸福な日々だったのだろう、と。



『ユスティティア、どうか俺と生涯を共にする契約を交わして欲しい』



 私は、この幸福が続く術を知っている。



『ごめんなさい、本当にごめんなさい!ボク、殿下を引き止められなかった……!』


『ユスティティア殿。どのような罰でも受ける所存ゆえ、どうかお心ゆくままに』


『我らが愛しの聖騎士団長様。君は、僕と共にこの罪を背負う覚悟はあるかい?』



 近付いて、触れて、身を委ねる。


 ただ、それだけでいい。



『サフィア様……どうか、この気持ちだけは、お許し下さい』








 ガッシャーンッ!!


 夜の静寂を破る大きな音が爆発したかのように響き渡る。


 身に覚えのないその音に、小首を傾げる。たしか私は、喉の渇きを覚えて水を飲みに来たはずだ。


 木棚から透明な硝子のグラスを取って、水道の蛇口を捻ったところまでは覚えている。だが、右手に持っていたはずのそれは、見るも無惨な姿となって床に散らばっていた。


 それに、心なしか少し足元が冷たいような気もする。もしや、立ったまま眠ってしまったりしたのだろうか。



「お師匠様!?」

「……ティア?」



 何をするでもなくただ立ち竦んで微睡んでいると、突然開かれた扉から聞き慣れた声が聞こえてきた。その声に込められていたのは、僅かな驚きと焦り。



「お怪我はございませんか!?足に破片が刺さったりは……!」



 慌てた声を上げるティアを見て、ようやく現実に戻ってきた頭が現状を理解する。どうやら、うっかりグラスを割ってしまっていたらしい。



「怪我はない。すまない、少し寝惚けていて……割ってしまったみたいだな」

「本当ですか?それなら、良かった……」



 深く安堵のため息を吐いたティアの肩が大袈裟に上下し、腰まで伸びた彼女の髪が視界の先で揺れる。



「ああ、そんなに飛び散っては無さそうですね。お師匠様、踏むと危ないからもう少しそのまま待ってて下さい」



 そう言って、ティアは手際良くガラスの欠片を集めていく。粗方回収し終えると、濡れた床と私の足を拭き、数分前の惨状をあっという間に跡形もなく消え去った。



「これでよし。もう時間も遅いですし、お掃除は明日にしましょう。まだ危ないかもしれないから、気を付けて下さいね」


「ああ、ありがとう。また迷惑をかけてしまって、悪いな」


「このくらい気にしないで下さい!お怪我が無くて、本当に良かったです」



 ティアの声が穏やかな波を保ったまま、部屋の四隅に溶け出していく。


 彼女が私へと向ける眼差しは、いつだって柔らかなものだ。


 それはとても優しくて、確かな温もりを持っている。安堵のあまり、胸が締め付けられて苦しくなってしまうほどに。



「お師匠様、今夜は一緒に眠りませんか?私の部屋から見える星空がとても綺麗なんです」



 辺りがふわりと明るくなるような、眩しいほどの笑みを浮かべた彼女がこちらに差し伸べた手は、あの日と正反対だった。



『わたしに人質としての価値は無いので、無駄だと思います。なので、殺して下さい』



 いつかは終わりが来る、無期限の奉仕。


 本来感受してはいけない彼女の慈悲と温情に、私は甘えた。


 同じ家に住んでいる以上、景色なんてどの部屋から見てもさして変わらないというのに、無邪気に笑う彼女を手放したくなくて、逃げ道を探すようにその手へ縋った。



「そうか。それは、良く眠れるかもしれないな」



 今日もまた、心の片隅に奇妙な喪失感を患っていた。

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