3 ヤンと

「カリン様、お加減はいかがですか?」

 枕もとでメアリさん―僕はカリンさんなんだと思い出して、声の主がメアリさんだと認識した―が優しく頭をなでてくれた。

 ゆっくり目を開けると、心配そうなメアリさんがいた。

 僕はふかふかのカリンさんのベッドに寝ていた。気を失ったのは絨毯の上だったように思うけど。

「ヤン様がすまないと謝っておいででした。特別何もしていないが疲れさせてしまったので寝かせてあると」

 あの人がベッドに上げてくれたのか。特別何もしていないって……どういう意味だ。いや、婚約者だというのなら、あれやこれをするということの何もしてないってこと、で。さ、さっきだって、キ、キスをを、いとも簡単ににに。

「あ、あの、メアリさん」

「カリン様、本当にお疲れなのですね。声もまだ戻ってらっしゃらない。何かお辛い夢でも見たのですか? 私のことはメアリと呼んでください。今までのように」

 僕は突然鼻先がつんと痛くなって、目頭が熱くなった。

 メアリさんの優しい声に、その言葉に。何かを思う前に心がぎゅっと軋んで弛緩した。

「カリン様、子供の頃のように一緒に手をつないで眠ることはできませんが、貴女様が落ち着かれるまでメアリはずっとここにおります」

 堪え切れない。

「ごめん、なさい……もう少しだけ、ここに」

 女の子の格好をした今なら、少し甘えてもいいだろうか。それでも泣いている姿は見られたくなかったので、両腕で顔を隠した。

 これは辛い夢なのか。

 ここはどこ? ここは何なのだろうか? 僕を知ってる人は一人もいない。

 僕は今の生活がほんの少し窮屈に感じて、悪役令嬢になって悪いことをしてリフレッシュしたい、そんな安易なことを考えていた。転生でも転移でもなんでもいいから、なんて軽々しく口にした。

 でも弟は、葵は僕を疎んじていて。永遠の決別を願った。そんな風に思われていたなんてちっとも知らなかった。だからダメな兄貴なんだろう。自分のことばかり考えて一番近い人間のことすら思いやれない。

 葵は同じ道を行くのだとずっと思っていた。一つ下の弟は明るくてスポーツ万能で友達もたくさんいた。僕はそんな弟を誇りに思っていたし、同じ高校に入学したことも嬉しかった。そういえば、葵の夢を聞いたことがなかった。あいつは本当は何になりたいんだろう。

 ……僕は多分、転生なんてことを言いながら無意識にいつか帰れるんだと思っていた。そういうものなんだろうと。

 本当に帰る事ができるんだろうか。来た道がわからないのに帰る道なんて当然わかるはずもない。

 それとも。

 葵や父さん、母さんと暮らした向こうが夢だったのだろうか。

 カーリンという意地の悪いNPC(ノンプレイヤーキャラクター)が僕の本当の姿なのだろうか。いつかカーリンと同化して僕は僕でなくなって。それが幸せなのかもしれない。

 葵だって、幸せになれる。

「メアリさ……いえ、メアリ」

 腕の下の涙は乾いた。

「なんでしょう?」

 ゆっくりと腕を下ろすと、メアリがにっこり笑っていた。

「お腹が空いた」

 今度こそベッドから身を起こす。腹をくくった。腹が減ってはなんとやらだ。きっといつまでもベッドで泣いてるわけにはいかないだろうから。泣いていれば帰れるというのならそうしたいところだけど。

「かしこまりました。サンドイッチでもお持ちします」

「それから、ヤン・マグヌソンを呼んで」

 とりあえず僕が頼れるのはあの男だけだ。葵と親しいみたいだけど、必要な事は教えてくれそうだ。

「ヤン様ならあれからずっとお待ちです」

「え?」

 僕がどれくらい眠っていたのか訊くと、二時間近くだという。もうお昼ですよとメアリはふふふと笑った。

「ヤン様はお優しいですね。カリン様をとても心配なさっておいででした」

 お連れしてまいります、とメアリは足取り軽く部屋を出ていった。

 優しい? まあ、僕の前以外はそうなのかもしれない。どっちが本当の姿なのかわからないけど。単に僕が好かれていないだけなのか。

「やあカリン」

 ほどなくして二人分のカップとサンドイッチを用意してきたメアリと共にヤンがドア口に立った。

「ヤン、様」

 俺系さわやかイケメンだ。立ち姿にも品がある。

「メアリ、これは俺が持っていくから下がりなさい」

「それではごゆっくりお過ごしくださいませ」

「あ!」

 僕は気付いた。寝間着のままだ。

「メアリ、ぼ、わ、私の着るものを」

「あら、申し訳ございません。すぐにお支度を」

「メアリ、俺がやるよ」

 はい?

「小さい頃は姉の手伝いをよくさせられたんだよ。だから大丈夫」

「ヤン様、何から何まで申し訳ございません。カリン様をよろしくお願いいたします」

 えええ……メアリ……行っちゃうなんて。いや、行くのはいいんだけど着替えを……。

 この男に全幅の信頼を寄せてるんだな。メアリがそうならきっと家の人みんなそうなのだろう。

 ぱたりとドアが閉まり。

 僕は大きく息を吐いた。話をしなければならないのだけどさっきの今でやっぱり気が重い。この男は葵の味方だろうし。

「おい、何着るんだ?」

「え?」

 いつの間にかヤンはクローゼットらしき前に立っている。

「いや、あの、自分で着替えますから!」

 僕は慌ててベッドを降りてヤンの下へ駆け寄る。本気なんだか冗談なんだかわからない。着替えを手伝うって、下着姿を見られるってことで。いや、僕自身は見られたって、いや、体は女の子で。えええええ? 心と体がバラバラで、思考が迷子だ。

「お前、シャツとズボンじゃないんだぞ、わかってるのか?」

 僕の小さなパニックなんか気付きもしないのだろうヤンは小馬鹿にしたようにニヤニヤと笑う。

「……ズボンとかない、です?」

「あるか、馬鹿野郎。成り上がりの家とはいえ、身なりはちゃんとしてるぞ」

「でしょうね……」

 わかってましたけど。メアリを見ればなんとなくわかる。メイドさんとはいえ、着ているものは上等の生地を使っているように見えた。

「あ。そうか、変装用にか……。おい唯、あったぞ!」

 ないと言いながらもクローゼットの中を探してくれたらしい。

「でしたらそれを」

「んなわけないだろ。ドレスを着ろ。慣れないことにはお前はどこへも行けないぞ」

 ……正論だ。

「ではヤン様が選んでください。僕にはわかりませんし」

 そう言えば去年の文化祭でドレスを着たっけ。クラスの出し物が劇で。男子校だから女性の役があれば男がやる。

「選んでやるが、今はヤン様なんて呼ぶな。お前さ、俺のこと知らない?」

 ……ゲームをやったことがないからキャラも知らないんだけど。

 はてなマークを浮かべた僕にヤンは溜息をついた。

「俺もまだまだだな……俺、お前の学校の生徒会長なんだけど」

「へ?」

 現実世界リアルがばーっと押し寄せてきた。生徒会長!? 名前すら知らない。見たことはきっとあるんだろうけど。

 疑問が湧くように溢れてきてもうどこから訊いたらいいのか……。

「色々あって、この世界に落ちてくる奴らの世話人みたいなことをやってるんだ」

「はあ……」

 そのあたり、もうなんでもいい気がしてきた。この人が生徒会長だろうがここがゲームの世界だろうが僕にはそう影響がない気がしてきた。

 上書きされる情報が多過ぎて確認作業が追いつかない。コップの水は溢れっぱなしだ。並べられた事実はこの場の外側の話で僕がそれを知ったとしてもどうしようもない。

 とにかく僕はここで生きていかなくてはいけない。それはわかったし、前向きにそうすることにした。帰るという言葉がこの世界にあるかわからないとなればそうするしかない。命の保証という意味では僕はとても恵まれているみたいだし。多分今日も明日も明後日も、晩の食事や寝床に困ることはない。

「理解していると思うが、お前は悪役令嬢。ヒロインに嫌がらせをする役だ」

 ヤンはそう言いながら、淡いブルーのあまり飾りのない、どちらかといえばシンプルな部類に入るドレスを選んでこちらへ寄越した。自分で着ると言った僕を気遣ってくれたのか、前開きのものだった。本物のドレスの構造だとか着方なんて知らないのだけど、このドレスは僕でも着れるようになっていた。ゲームの世界だからか方々に都合のいいようになっているのかもしれない。それはありがたい。とはいえ、普段スカートなど穿くことなんてありえない分、気が滅入る。

「ほら、肩が浮いてるぞ」

「!」

 四苦八苦して着ている僕の後ろにヤンが立つ。僕は驚いて前へつんのめってしまった。

「なんだ、俺の後ろに立つな、とかいうやつか?」

「いえ、まあ……気配が大きかったので」

 僕より背が高いんだろうなと思ってはいたけど。まてよ、僕は今カーリンの身長なのか。二十センチくらい差があるんだろうか。

「警戒してるのか? 殴ったりしないし、襲ったりもしないから安心しろ」

「襲うって……僕は男ですからそれについては気にし……ぃっ?」

 どんっと肩を押され、ベッド方向へ突き飛ばされた。

「お前は馬鹿だな。これのどこが男なんだ」

 間髪入れずヤンがベッドに上がり、僕をベッドに沈ませる。まだボタンが止まっていない胸元からヤンが乱暴に手を差し入れた。

「!!」

 ヤンの手の冷たさに首を竦めると同時に言い知れない感覚が体を駆け抜け、顔に熱が走る。ヤンは僕じゃない僕の胸のふくらみに触れた。女の子なら男に簡単に許さないことだ。そう思ってて、今そう感じた。

「…………」

「耳まで赤いな。お前は男じゃない、女だ。力ではオレに及ばないし、外から受ける刺激は女のものだ。そこは自覚しろ」

 圧倒的な力の差があった。ベッドに縫い付けられるように押さえつけられて。

 急に恐怖がせり上がる。力では勝てない。こんな風にされたら抵抗できずに殺されることだって。

「………………はい」

「怖かったか? 悪かったな」

 ヤンは僕の顔に手を伸ばすと意外と細く綺麗な指で目尻を拭った。涙を滲ませていたのだと、触れられて初めて気が付いた。

「すみません」

 一日に二度も泣くなんて。メンタルがぐずぐずだ。

「これから家の外に出ることも多くなる。薄暗いところには行くなよ?」

 ヤンは僕の横にごろんと寝転ぶ。広いベッドなんだな……。

「俺は一応お前の婚約者だ。一緒にいることに不自然はない。毎日必ず報告しろ。それはお前の帰還の近道にもなる」

「き……かん?」

 きかん、って。

「実は葵もここへ来たことがある」

「え」

 驚きと心の痛みと。ついでに胃がきりきりと痛んだ。

「つまりだ、葵を見ればわかるように帰ることができる。片道切符じゃない」

「そう、ですか……」

 帰ることができる。とても嬉しいことなのに。でも帰ったところで僕の居場所はあるのだろうか。葵の気持ちを知った今、同じ二段ベッドで眠る事なんてできるのだろうか。

「ただし、この世界でお前が予定外に殺されるようなことがあれば二度と向こうへは帰れない。そもそもカーリン・スヴァンホルムは意地は悪いが殺されるまでの陰湿さはない。ヒロインの彼氏を自分のものにしたくて、その上平民出身なのに特別待遇で自分たちの学校にいるヒロインが目障りで意地悪をしているだけだ」

 ……小物だな、カーリン。ヒロインの彼氏を横取りしたいとかどんだけ。

 え、でも。

「俺とカーリンは別に相思相愛というわけじゃない。親同士が決めた、っていうお約束のアレだ」

「なるほど……」

 ゲームだしお約束はたくさんあるのだろう。

「だから俺もヒロインいじめに駆り出されるわけだ」

「え?」

「で、最後はヒロインの彼氏も巻き込んで二人が結ばれるグッドエンド。それがカーリンが絡むルートで、お前が帰還できる条件。フィオーレストーリアの主人公は本当はヒロインの彼氏なんだが、お前のルートはヒロイン視点の恋愛編ってことになる。初期シナリオってこともあって結構イージーモードだぞ。学校内でのイベントがほとんどだし」

 頑張ればグッドエンドまでもっていけるのかもしれない。ヤンも手伝ってくれる。

 ただ、そのあと。僕はどうしたらいいのだろう。

「グッドエンドを迎えた後もここに残ることはできるのですか?」

「は? いや、強制的に現実世界に戻される。残りたいなんて言う奴は聞いたことがないが。殺された場合は、永久に戻れずにゲーム内の他のキャラに転生することになる」

 わざと殺されるというのもいいけど、痛いのは嫌だな……。

「ここは、なんなのですか?」

「さあ? 俺にもわからないな。神様か何かの遊び場なんだろう。考えたところで答えは出ないから俺もほったらかしだ。アップデートが年に何回か行なわれ、キャラの昇格や新たなストーリーの追加も行われるロングセラーのオフラインゲーム、らしいけどな」

 安易に口にしたことでとんでもないことになった。けど、こうならなければ知ることができなかったことも知った。

 僕はやはりここに来なくてはいけなかったということなのだろうか。

「悪役令嬢になりたくて、ここまで来たんだろう? 役目を全うしてすっきりして向こうへ帰れよ。ここはそういう場所だ。疲れた魂を癒す場所なんだろう」

 ヤンは起き上がってワゴンをベッドまで引っ張ってきた。

「茶は冷めちまったが飲めないこともない。お前の家のサンドイッチは美味いぞ」

 行儀悪くもベッドに腰かけたままヤンはサンドイッチを頬張った。

 僕はよくよく考えるとここに来てから何も食べていないことに気づいた。というか当たり前なのかどうかすらよくわからないけど、そういう食欲だとかモノを食べるだとか、睡眠だとかトイレだとか、普通にここではあるの、だ。食べるけど味がしないとか、空腹感はないとか、眠るけど疲れているわけじゃないとか、上辺だけの人間の営みかと思っていたが。

 なぜかと考えてもヤンの言う通り答えはないのだろう。僕のように性別が違う上、ゲームのこともキャラクターのことも何も知らないというイレギュラーな転移はそうないのかもしれないし。きっと中には性別が違うキャラクターを望む人もいるだろう。重要なのはちゃんとわかっていてシンクロできるかということだ。……僕は安易にそのあたり適当にやってしまったからシンクロできないわけで。

 ヤンがティーカップに口を付けたまま、僕にサンドイッチの皿を向ける。起き上がって着崩れているドレスのボタンをきちんと留めてから皿を受け取り、残っている野菜サンドを一口食べた。ベッドの上で食べるとメアリに怒られそうだけど。

「美味しい……」

 カリン個人が意地悪なだけで、家の人はみんないい人なのかもしれない。婚約者のヤンも含めて。

「よし。じゃあ、これからよろしくな、カーリン」

 ヤンは立ち上がると僕の頭をぽんぽんと、子供をあやすように触れた。まだ食べているところだった僕は気恥ずかしさと驚きでむせってしまって。

 そしてヤンはくくくと笑いながら部屋を出て行った。

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