2 お嬢様?

「お嬢様、お目覚めになられましたか?」

 ノックと共に若い女性の声がドアの向こうから聞こえた。

 そう、僕は女の子だ。令嬢、なんだから当然女の子。

 なぜ悪役令息ではなく悪役令嬢なのかというと、弟が遊んでいるテレビゲームにそういうキャラクターがいて、すごく悪い子なのだと弟が憎々しげに教えてくれたからだ。僕はそのゲームをやったことがなくて、全然ゲームの内容もそのキャラクターのことも知らないのだけど、他にワルなものを想像できなくて手っ取り早くそれを願った。

 悪役令嬢というものならばたくさん悪いことができるのだろうと。

 そして晴れてなれてしまったわけだけど。

 願ってまもなくそういう状況になれるということは、自分はそんなに切羽詰まっていたのか。と少々疑問には思う。

 別にガリ勉的な生活に不自由を感じていたわけでもない。ほら、魔が差した的な、高校生が酒や煙草にうっかり手を出した的な。

 医者になりたいと思うけど設定された景色を見ながらじゃなくてもいいんじゃないかとは思っていた。今ここでスイッチングしてレールを変えてみたらどうなるだろうと。

 まあ、それと悪役令嬢の件とは全く関係ないのだけど。

「はい、起きました」

 とりあえずベッドの中から身を起こして応えてみた。

 …………。

 あれ。

 声、あんまり変わってない?

 どんな声が出るのだろうと戦々恐々としていたのだけど僕の知る僕の声にかなり近い気がする。というかそのまま? つまり声変わりした十七歳の男の声。僕はそっと自分の咽仏を触った。男特有のごつごつは、ない。やはり体は女性なのだ。手も腕も視界に入る体も、一回り小さくなっているような気がする。

 大丈夫なのだろうか。と思って、何がだろう、とも思う。僕はどこかに飛ばされてしまって、今はどこかのそこそこ成長している女性(子供ではない)。中身は男のままだけど。だから外見的には僕は一応何の問題もないはずだ。でも声だけが男のままで。絶対ここだけは変に思われる。前?と違うじゃないかと思われてしまう。そのうえ。

 悪役令嬢になったことはわかるんだけど、僕であるこの人がどんな性格でどんな生い立ちなのか、ドアの向こうの女の人は何という名前なのか、もともとの中の人を追い出す形になってしまっているからわからない。

 ……そんなものなのだろうか。いっそ子供ならばよかったのに。

 そんな都合のいいことを考えていると、ガチャリとドアノブが回り、ドアが開いた。

「おはようございます。カリン様」

 ばりばりの、誰が見てもメイドさんの制服を着た十代後半か二十代前半ほどの若い女の人がにっこりと笑って、ベッドまでずんずん歩いてくる。……僕の名前はカリンさんというのか。

「あー、ええと、おはよう」

 にっこり笑い返したのだけど。

「ひいっ、どうなさったのですか」

「え」

 メイドさんは大げさに二、三歩後ずさりした。

「何か拾い食いでもされましたか?」

 ……案外、メイドさんというのはフレンドリーなのだろうか。乗りが良くてお茶目さんなんだけど、この人。

「いや、あの」

「どどどどどどどうなさったのです!? ドアを開ける前も思いましたが聞き間違いかと。貴女様の、”今日もお前は不細工ね、メアリ”っていう挨拶にもならない朝のご挨拶が聞けないなんて!」

「……………」

 そんなこと言えるわけない。どんだけ酷い人なんだ、カリンさん。

 ああ……つまり悪役令嬢ってこういうことか。これも「悪いこと」の一つだ。

 それにしてもこのメアリさん、毎朝そんな酷いことを言われているにも関わらず、どうしてこんなに楽しそうな人なんだろう。

「きょ、今日もおまえ、は……ぶ、ぶさい……うーん」

 酷いことを言っていると自覚しながら酷いことを言うって、一体。どうしても言えなくて、僕は起こしていた己の身をぱたりとベッドに戻した。

「カリン様!?」

 枕元に飛んできたメアリさんが僕の額を掌で覆う。

「……熱はなさそうですね。他に具合の悪いところが? 声もいつもよりずっと低いですし。喉の調子が悪いのでしょうか」

 ……やっぱり声は元のカリンさんのものではないのか。

「声が低いのは僕もよくわからなくて、そ」

「僕ぅ?????」

 しまった……。

「カリン様カリン様、本当にどうなさったのですか! どなたかに一服盛られて何か体がおかしなことになっているのではないですか!?」

 ……メアリさんから見れば確かに体がおかしなことになってるのだろう。とりあえず僕は一服盛られてないけど、そんなことが日常茶飯事ある世界なのだろうか。

 どうしよう。答えてあげたいけど、納得してもらえるような答えが見つからない。

 もう、寝るしか。

 僕は静かに目を閉じた。

「カカカカカカカカカカリン様ああああああああああああああああ」

 半狂乱でメアリさんが僕の体を揺するが、ここは踏ん張るしかない。絶対目は開けない。メアリさんごめん、ちょっと一人にさせて。僕は今の状況をちゃんとじっくり考えてみないと。

「静かにしなさい、メアリ」

 その時、誰かが戸口でメアリさんの名前を呼んだ。それはとても落ち着いた、低音が艶やかな若い男の声だった。僕は目を閉じているからその姿を見ることはできない。

「ヤン様!!」

 メアリさんにヤン様と呼ばれた男のつかつかと絨毯を歩く音がして、それは僕の頭のあたりで止まった。

「おはよう、メアリ。挨拶もそこそこにすまないが、しばらく二人にしてもらえないだろうか」

「はい、あ、いえ。まだお嬢様は寝間着のままで。そんなお姿でヤン様と」

「いいんだよ、婚約者がどんな姿だろうと俺は構わないから」

 こん……。

「朝食もまだお済みになられていませんので、お早めに切り上げてくださいますよう」

 そこまで言われれば引き下がるしかないのだろうか。そうメアリさんが言って、まもなくドアがぱたりと閉まった。

「カリン、カーリン、目をお開け」

 はるか上からイケボが落ちてくる。だけど僕は今目を開けたところで上手く切り抜けられる気がしない。メアリさんみたいに混乱させてしまうだけだ。ここは無視だ。ヤンさんには申し訳ないけど。僕は目を閉じ続ける。

「なるほど。お姫様は王子様のキスで目を覚ましたいのかな」

 は? はぁあ!?

 これはどうしたら。ヤンさんの婚約者らしいカリンさんはやはりヤンさんとはそういう仲で、キ、キスなんか朝飯前の出来事なんだろうか。

「仕方ないな。どこまでも甘えんぼさんだ」

 ひぃ。ほんとに、ほんとにキスされる、の、か。

 と思った時には、顔に気配がして、一瞬だけ柔らかいものが僕の唇に触れた。お、男と、キス、した。いや、僕は今女の子か。ああ、もう、なんだこれ! 

「……強情だな、お前。まだ寝たフリをするつもりか」

 え。

 ヤンさんの声色が変わった。感じる気配の温度が少し下がった気もする。

「目を開けろ、三崎みさきゆいられたいのか」

「!!」

 耳もとで物騒なセリフが。

 僕は勢いよく飛び起きて、そのままベッドから落ちた。白いひらひらの薄いドレスのようなものを着ていたらしい僕は立ち上がろうとしたものの、足元がからまって更にコケた。

「……痛」

「とっとと起きればいいものを」

 ベッドを挟んで僕はヤンさんを見上げた。ヤンさんも僕を見ている。冷たい目で。僕より少し年上のいいところの外国の貴族のような服装のボンボン、っていう風体のイケメンで。だけどその口調はメアリさんがいた時と違う。

 いやそれより。この人は僕の名前を知っている。どういうことだ。

「なんだ、だんまりか。俺はお前が知りたいことを教えてやれるんだが」

「……あなたは、何者ですか」

 僕は慎重に訊いた。この人はメアリさんより何かを知っているのだろう。

「俺はヤン・マグヌソン、そしてお前はカーリン・スヴァンホルム。ここに来る前は三崎唯という名前だな」

「僕は一体」

「何を言ってる、お前が望んだんだろう? この世界に来ることを」

「……確かに」

 特にここ、と限定したつもりはなかったけど。だからここがどこなのかわからない。望みはしたけれど叶うとも思っていなかったし。現実逃避の妄想遊びみたいなものだ、った、多分。今となってはそう思う。

「ここは、フィオーレストーリアというパソコンゲームの世界だ」

「ゲーム!?」

 どこかで聞いたことのある名前。

「お前の弟がプレイしていたゲームタイトルだ。お前は知らないようだが」

「え?」

 弟のあおいが悪役令嬢の話をしてた時に出たタイトルだったかもしれない。

 いや、どうして、弟のことを知っている?

「葵は帰ってこなくていいって言ってたぞ」

「ちょ、どういう……」

 話がどんどん転がっていく中でとんでもないことをこの人は言った。

「出来すぎた兄貴を持つ弟はストレスが溜まるんだそうだ」

 え……。

 ぐらりと世界が揺れた気がした。

「兄弟そろって、ここにお前が来ることを望んだ。大団円じゃないか」

 僕は。

 だめだ。頭がうまく回らない。言葉を咀嚼できずに上滑りする。ちゃんと考えたいのに僕が僕を拒絶する。

 本当に……。

 瞼が重く……。

 意識が。

 すうっと遠くなった。

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