春遠き飛竜

燗馬

プロローグ

 雲海がどこまでも、どこまでも地上を覆っていた。

 見上げれば青暗い天が遮るものなく広がっている。動く物の影は何一つ見当たらない。

 空は生命に許された領域では無かった。常に巡り吹く風だけが、虚空を満たす全てであった。

 ただ一つ、天翔る竜を除いては……。


 「今日の空は一段と静かだよ。な?トゥーリオ」

 大空たいくうを統べる玉座、丘のように巨大な竜の背の上に、一人の若い男が座っている。

 乱雑に刈り込まれた髪は西風を受けても揺れることはなく、照りつける陽光によって赤茶けた顔に、わずかに白い歯をのぞかせている。毛皮でできた厚手の服や、ちぐはぐな色合いの革鎧は見るからに盗品然としていた。

 彼の名前はセキュー、飛竜乗りである。


 「このまま昼寝でもしていたいんだけどなあ」

 セキューは、彼がトゥーリオと呼ぶ飛竜の背に寝転がって天を仰いだ。

 空は広く、それでいて全てを吸い込むような暗さで、重力さえ無ければどこまでも深く潜ってゆけそうな気がした。太陽だけが眼球を刺し貫くような強い光を放っていた。


 ここに余計なものは何一つ存在しない。頬を撫でる風、白い雲に映える雄黄ゆうおう色の鱗、またぐらから鱗越しに伝わるトゥーリオの体温、空を切る巨大な翼のリズム……。

 そのまま天まで飛んで行けば、全てが真っ青に溶けて消えていくだろう。何の根拠も無いが、彼にとっては確かな予感だった。


 「さて、と」

 彼はトゥーリオの背中の上で器用に寝返りを打って、今度は相棒の肩越しに雲海を見下ろした。

 西から吹き付ける風は白亜の波をゆったりと押し流し、時として雲海の中に割れ目を作る。雲の合間から見える黒い峰々は、吹きすさぶ風によってごうごうと音を立ててたたずんでいた。山々に積もる雪は、雲の白さも相まってうすい灰色に感じられる。


 若き飛竜乗りはため息をついた。眼下の山道に予想通りの光景を見たからだ。

 商隊のものらしき荷車に山賊が群がっている。護衛は腕や背に矢を受け、やっとの思いで剣をふるっていた。雇われの傭兵ならここまで必死に戦うことはないだろう。彼らは身内だけでこの山道を進んできたらしい。

 荷車が動かないところを見るに、馬か車輪のどちらかがやられたようだ。数は山賊側が圧倒的に多い。勝敗はすでに決している。

 肉を絶つ鈍い金属音が、雲海の上まで響いてくる気がした。


 昨日、山道をずいぶん急いで東に向かう商隊を見かけたとき、すでにセキューの脳裏にはこの光景が浮かんでいた。彼らの進行方向に山賊の狩場があることを、彼はよく知っていたからだ。


 (いいカモだよ、全く)

 セキューは憂鬱そうに身体を起こしてトゥーリオの背にまたがると、今度は体を大きく前に倒して相棒の首筋に手を伸ばす。背にまたがる人間の重心が前に移動したことを感じ取り、巨大な飛竜はやれやれといった様子で首を振った。よほど機嫌がいい場合を除き、休憩直後のトゥーリオはこうしてセキューの指示に抗議をする。まだ十八にもならない人間の小僧なんかには従いたくないのだろう。

 セキューはかつてトゥーリオにまたがっていた育ての親のことを思い出した。あいつはどんな飛竜に乗っても文句を言われることなどなかった。


 「文句言うなって、多分すぐ終わるからさ」

 雑念を払ってトゥーリオのうなじをパンパンと叩く。飛竜はしぶしぶといった様子で、長い首を前に倒した。その金色の眼光が雲海の切れ目に向けられる。前足が胴体に密着し、翼のはためきがやや小刻みになる。


 『ビビんなよ、お前が飛ぶんじゃねえんだぞ』

 養父の言葉が頭に浮かぶ。

 (もう忘れろよ、いつまで死人に引っ張られてるんだ)

 自分に言い聞かせる。次々に浮かぶ嫌な思い出を払いのけて、トゥーリオに意識を集中させる。だんだんと余計なものが消えていく。空に、自分と相棒の二人だけがいることを再確認する……。

 鱗越しに脚で挟んだ飛竜の背筋が、引き絞られた弓のような緊張を持つのを感じた、瞬間、


 ガツッ!と音を立て、セキューの両足がトゥーリオのわき腹を蹴り飛ばした。ヤギの骨で縁どられた革のブーツが鱗を叩いて、トゥーリオの脳髄に響き渡る。翼が空を押し上げる。全力の羽ばたきは重力に逆らうものではない、自由落下では遅いのだ。

 完全に真下に向けられた鼻先から末尾に至るまで、トゥーリオの巨躯は一振りの槍が如く一直線に伸びてゆく。天から大地へ飛び込む彼らは、正しく雷であった。


 セキューはトゥーリオと共に、緊張をたたえて雲海の裂け目に飛び込んだ。雲の下は峻険な山脈の支配する乱気流の領域である。山々が生み出す暴風は、風というより目に見えぬ洪水と呼ぶべきものだ。下手に翼を広げたり気流の流れを読み違えば、圧倒的な風の暴力がトゥーリオの身体をグズグズに引き裂いてゆくだろう。


 しかしセキューには気流の流れなど一切見えない。彼に分かるのは相棒の体の動きだけである。

 飛竜には暴風の境目が見える。実際トゥーリオは暴風の只中で臆することも体勢を崩すこともない。セキューがしがみつくトゥーリオの首筋の筋肉は、焦燥に凝り固まることなく一定の緩やかさを保っている。鱗越しにも、相棒が問題なく空路を進んでいることが伝わってくる。


 風などわからなくていい、空は飛竜が見極める。しかしその飛竜については、爪の伸び具合から心臓の鼓動に至るまで、己の体以上によく理解していなくてはならない。それが、飛竜乗りの全てであった。


 凄まじい勢いで接近する地表を見、トゥーリオは頭をわずかに上げた。それに合わせて両翼をゆっくりと広げ、体の向きを少しずつ水平に近づけてゆく。一連の動きを自らの呼吸以上に把握しているセキューは、相棒の邪魔にならない範囲で降下地点へと誘導する。と同時に、自分の胴を挟むように身に着けていた弓を左手につかんだ。

 雲の上からではおぼろげだった山賊の姿がハッキリと見えた、おおよそ二十人。向こうもこちらに気づいたようだ。


 「グギュっオオオオオオ!」

 トゥーリオが雄たけびを上げる。完全に広げられた翼が、地面に衝突するすれすれになって二人の軌道を水平に押し上げた。遥かな天空から落下して来た勢いがそれでとどまるはずもなく、あたりの低木をなぎ倒し、山賊たちの体を軽く浮かせるほどの風圧をまき散らして奴らの頭上を突き抜ける。


 セキューはトゥーリオのうなじに伸びる鱗のでっぱりを右手で引き寄せつつ、わき腹を蹴って軌道を完全に上へと向けた。

 トゥーリオはそのまま軌道を曲げ、山賊の頭上で宙返りをして見せた。美しい円軌道の頂点、飛竜の巨体が天を覆う最中さなか、セキューは遠心力に身を任せ両手をトゥーリオから離し弓を構えた。引き絞られた弓から一本の矢が放たれる。不運な山賊の頭蓋が貫かれたその時、山賊たちの体はまだ風圧に浮いたままだった。


 トゥーリオは翼を大きくはためかせ、体勢を整えゆっくりと地面に降り立つ。着地の衝撃が地面を走る。

 突如舞い降りた天空の支配者を前に、山賊たちが戦闘の意思を持つはずがなかった。腰を抜かして動けない者も、トゥーリオの再びの咆哮を受けて鼓膜を押さえながら潰走かいそうしていった。


 セキューは構えていた弓を下げた。逃げゆく者には目もくれず、自分が射た山賊の死体を見下ろす。細くて軽い彼の矢は、山賊の左眉の上あたりから後頭部までを貫いていた。

 (無駄射ちだったかよ……ハア)


 セキューはトゥーリオの背から飛び降り、足早に歩いて矢の回収に向かった。

 風圧に耐えるゆがんだ顔のまま、左の眼球が飛び出した山賊の顔。決して目を合わせないようにしつつ、セキューはそれを左手で押さえて、一気に矢を引き抜いた。飛竜乗りの矢には返しがない。ぽっかりと空いた穴が、綺麗な円形を保ったまま中身を垂らし始めた。


 セキューは次に荷車の方に目を向けた。空から見たときは行商の一行に見えたが、それにしては馬車の造りが粗雑だ。不揃いな組木といい歪んだ車輪といい、とても材木職人が造ったとは思えない。商人なら職人が造った物を買うだろうが……。


 例えばこれが農民の手作りだとして、村の木工屋が何らかの事情でいなくなり、しかも使っていた村の馬車が壊れた、あるいは盗まれてしまったため、他の村人が何とかあつらえた……。

 (とかだったら、色々納得できそうだけど)


 誰がこの馬車を造ったかはともかく、一行が行商ではなく農民だというのは当たっていそうだ。馬車の周りに転がる死体は、どれも手斧や刈り入れ鎌なんかを握っている。

 山賊たちは彼らにきちんと止めを刺していた。逆に言えば、そうする必要があったということだ。

 山賊も賊とはいえ戦いを生業とする集団だ、武に生きる者は無駄な戦闘を必ず避ける。自分が死んだり怪我を負う可能性を増やしたがるものなどいない。奴らも馬車を囲んだ段階で、荷物を引き渡すよう脅しをかけたはずだ。


 しかし農民たちはそれを拒んだのだろう。危機が迫ると視野が極端に狭くなって、勝ち目のない戦いに狂奔きょうほんするのも農民らしい。土地や収穫物に縛られる彼らには、逃げるという選択肢がないのだ。

 脅されようと矢で射られようと、血走った目で武器をふるう彼らの姿が容易に想像できる。


 むかつく吐き気が胸に広がる前に、セキューは考えることをやめた。また死人に引っ張られていたようだ。

 「誰か、生きてるか?」

 一応、呼びかけてみた。

 結果は彼が薄々感づいていた通りだった。


 昨日彼らを見かけたときに、この先に盗賊がいると伝えればよかったのだろうか。彼らはそれを聞き入れただろうか。天から飛竜が降ってきたら、彼らは恐れて攻撃したのではないか。

 そうなれば、間違いなく逆上しただろうトゥーリオを、俺は止められただろうか……。


 『ビビんなよ……』

 また、だ。

 あきれるような、吐き捨てるかのような声。あいつが居なくなってから、もう何年もたったはずなのに……。


 セキューは黙って荷車の後ろに回った。もうこれ以上陸地に長居したくなかった。さっさと取るもの取って空に帰ろう。

 (肉やパンは間に合っているし、干した果実とか野菜があるといいんだけど)


 荷台の荷物は思いのほか少なかった。いくつかのズダ袋に穀物が詰まっていて、塩漬けの大きな魚が二尾、天井から荒縄で吊るされていた。他には何らかの工具が入っている箱と、水の入ったタル、寝具と思しき毛布が詰まれているくらいだ。

 しかしセキューはそれらの一切が目に入らなかった。彼の黒い瞳は荷台の中央に吸い寄せられていた。


 広げられた毛布の上に、人が寝かされている。

 白く丸い頬が真っ赤に燃えて、額には汗がにじんでいる。荒い吐息を絶え絶えに吐き出し、それに合わせて両肩が弱々しく上下していた。澱みなく流れる黒髪は、光をこぼして下の毛布に広がっている。

 まだ少女と呼んでも差し支えないような年頃に見えるその人は、見るからに病に苦しんでいた。

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