第8信 母親の過去を辿る手紙


 📞📞 来信 📞📞



 藤野ふじの真澄ますみ


 突然のお手紙失礼いたします。

 私は高瀬たかせ千重子ちえこの娘で、高瀬かなと申します。

 三十年以上も前のことになりますので、覚えていらっしゃらないかもしれませんが、先日亡くなりました母、千重子がお借りしたまま返せなかった『茶掛ちゃがけ』を、貴方様に返却して欲しいと言い遺しましたので、大変不躾ではございますがご連絡させていただきました。


和顔愛語わげんあいご』と書かれた掛け軸は、私が幼き頃より、我が家の玄関に掛けられておりました。毎朝、目の端に捉えつつも、茶道や禅語に疎い私は興味を持つことはなく、母にその真意を尋ねることもありませんでしたし、母も語ることはありませんでした。

 

 ですから、どのような事情で母がこの掛け軸をお借りし、なぜ今になって私に返却を託したのか。一切わからぬままに、貴方様に文をしたためることが果たして良いのかどうか、とても迷いました。

 ただ、母一人子一人、肩寄せ合って生きてきたなかで母が私に頼み事をしたのは、後にも先にも今回が初めてでした。そんな母の願いを無下にもできず、甚だご迷惑なことと思いつつ、こうしてお尋ね申し上げた次第です。


 もし差し支えなければ、経緯などをお教えいただけたら幸いです。

 でももし、そのままにして欲しいとお望みでしたら、この掛け軸は私の方で大切に保管させていただきます。

 お手数をおかけして申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします。


          高瀬 奏


 ※茶掛とは、茶室の床の間に飾る掛け軸のこと。




 📞📞 返信 📞📞



 高瀬奏様


 御母堂様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


 これから私の申し上げることは、貴方にすれば荒唐無稽と思われるかもしれません。

 信じていただけないならそれはそれで結構ですが、そうであれば徹頭徹尾ばかげた妄想と笑ってすべてお忘れください。

 もし信じていただけるなら必ず私の忠告を守って、危険から身を遠ざけてくださいますよう。


 私のことは、もう生きながらえる欲を断ちましたからよいのです。ただ貴方まで巻き込むのは、たとえそれがほかならぬ貴方の母君の望みであったにしても、私にはどうしても正しいと思えないのです。

 けっきょく私は千重子さんのことをなにもわかっていなかったのかもしれません。


 私と千重子さんは、かつてある組織に属していました。いえ、今も属しているというべきでしょう。ひとたび組織に属した者はだれもが、組織のくびきに生涯つながれ続け、そこから外れようものなら死をまぬがれないのですから――貴方の父君がそうであったように。

 そのことで千重子さんは私を憎み、けっして許しませんでした。


 千重子さんは三十年のあいだ私への復讐心を燃やしつづけ、さいごまで忘れなかったのですね。死を前にしてとうとうその鉄槌を下ろした辛抱強さと胆力とに、私は畏怖しないではおれません。

 貴方の母君は、そういう方でした。


 復讐し、殺す。母君のそのような一面に貴方は違和を感じられるかもしれません。ですが母君の望みは正当なのです。貴方も事情を知れば、同じことをなさるかもしれません。

 私が貴方の父君を殺したも同然なのですから。


 貴方の父君の、組織に対する深刻な裏切り行為を調べ上げ、組織に報告したのは私です。そのことに言い訳はしますまい。

 千重子さんは従容として組織の下した処分を受け入れました。どれだけの悲しみと憎しみで心中を焼け焦がしていたとしても。

 そして引退を申し出、認められて、組織の用意した新しい名前と来歴のもとに平穏な暮らしを得たのです。


 私の方はその後も長く組織で働きつづけましたが、二年前に致命的な失敗を犯したために、今は組織から追われる身になりました。

 どうして千重子さんがそれを知り、私の居場所まで突き止めることができたのか、私にはわかりません。ただその動機は疑いもなく、私への憎しみであるはずです。


 私と千重子さんとはかつて深く愛しあった仲でした。

 といっても貴方の父君と出会う前の話ですので、醜い不倫や三角関係を心配なさることはありません。

 こんなことをわざわざ貴方に申し上げるのは、そうでなければ千重子さんの死刑宣告に私が素直に従うわけを貴方にはとうてい理解いただけないだろうと案ずるがためです。


 茶掛は、返していただくには及びません。もともと私のものではないのですから。

 和顔愛語。なつかしい言葉です。言葉はうつくしいですが、それは組織員に死を賜うとき、組織が送りつける符丁でした。

 私に返すとされた茶掛は、かつて貴方の父君に与えられたものでありましょう。

 三十年その言葉を毎日見つづけた千重子さんの胸中を想うと、かつて愛したひとの蒼白い心もちに憐れを感じるとともに、そら寒い恐れを催さずにおれません。


 されば、貴方の母君が茶掛を私に返すと言った真の意味は貴方にも明白であろうと思います。

 私は早晩死にましょう。組織により殺されるか、そうでなければ自ら命を断つことによって。

 それが千重子さんの望みでしたから。ここに復讐は遂げられ、千重子さんの胸を焼きつづけた宿望は叶えられました。


 以上、かいつまんで貴方の母君と私と、茶掛をめぐる事情を説明いたしました。

 これで貴方の知りたかったことには答えられたでしょうか。

 さいごに、貴方に忠告しておきます。


 この手紙の応答は組織にも筒抜けになっているはずです。貴方の母君は引退後も変わらず組織の監視下にありましたから。

 私の居場所も組織に知れたわけです。

 それはよいのですが、そのために貴方まで秘密を共有することになってしまった意味を、よくお考えください。


 貴方のとり得る道はふたつです。

 すべて忘れてこれ以上一歩も踏み込まないか、あるいは、組織の一員となって絶対の忠誠を誓うか。

 貴方がどの道を選ばれるにせよ、貴方の未来に幸多かることを勝手ながらお祈りいたします。




 📞 📞 📞



 復讐のためには実の娘を巻きこむことも辞さない母親の、底深い情念に震撼させられました。

 ひとには母性とともにどこまでも自己中心的な本能が備わっているようです。


 その点は返信を書いた男も同様に思えます。

 千重子さんの意図はともかくとして、娘の奏さんに対して事実を伏せ当たり障りのない返事で済ませてこれ以上巻き込むリスクを増さない選択肢もあったはずですが、男は逡巡しながらも敢えてすべて明かす道を選びました。


 人の胸中は他人には知り得ないものです。

 会ったことのない奏さんの安全よりも、かつて愛した千重子さんの意思を優先した男を、よそから非難したところで得るものはなにもないでしょう。

 そこに人はエゴイズムを見るのかもしれません。あるいは人間とは本質的に孤独なものであるという、神が隠そうとして隠し得ないでいる不都合な真実を。



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