第18話 『歓喜の歌』
視界がぼやける。
しかしそれも僅かな間に鮮明になる。目に映るのは白と黒の鍵盤だ。ステージの上、鍵盤上に指を走らせながら、神威レイジはまどろむような心持ちで、自分が夢を見ていたことを思い出す。その夢の中で、レイジは自分の見たくないものを幾つも見た。思い出したくもないことを幾つも思い出した。それでも、レイジはそこで見たものを忘れたくなかった。
レイジは矢神とは別の時間軸で、アカシック・レコードに接続し矢神櫂と出会った。矢神の見てきた世界を見て、それから、自分がしてきたことを矢神櫂に告白した。彼は笑ってこう言った。『そんなこともあるさ』と。レイジは自分のしてきたことを後悔している。だが、後悔しないために自らの目的を完遂しなければならないと思い込んでいた。
だが、違う。
人は何かを背負うために生まれてきたわけじゃない。苦しむために生まれてきたわけじゃない。自ら望んで地獄へ踏み出さずとも、地獄は向こうのほうから勝手にやってくるものなのだ。全ての人に、それぞれの形の地獄がある。それでも、諦めずに立ち向かう気持ちがあれば……。誰かがその地獄を代わりに背負おうなんて、最初から傲慢な話だったのかもしれない。自分の苦しみを他者に当てはめて分かった気になること自体、傲慢だったのかもしれない。自分はあくまで自分に過ぎない。一人の人間に出来ることは、一人の人間に出来る範囲のことで充分なのだ。
全人類の救世主なんかに、ならなくてもいい。
それが、分かったのだ。
『君はこれから先に行け……』
ああ、自由に行くよ。
『音楽は人を救う。心の中を照らしてくれる光だ。どんな絶望の中でも、好きな音楽を聴けば勇気が溢れ出す。君は誰かの光になるために……』
ああ、自分に出来る範囲で誰かを照らすよ。
『僕は既にやるだけのことをやった。次の世代にこの光を託したい』
ああ、人一人分の光を託された。
ただそれだけの話を、なぜ自分はあんなにも拡大して考えていたのだろうか。全人類の救済なんて、最初から出来るはずがない。だけど、自分と、自分の手の届く範囲でなら、救済は出来る。
目の前にいる人を幸せにするだけでいいんだ。会場に来た人たちだけを幸せに出来ればいいんだ。無理する必要なんてどこにもない。みんなが、自分の出来る方法で、自分に出来る範囲で、他者を救えばいいだけの話だ。全人類が、隣の人の救世主になればいいのだ。
レイジはそのことに気付き、やはり、自分は驕っていたと笑う。他者のすべきことを、勝手に奪って、自分の仕事にして、それで心を病んでいるようでは、それこそ自業自得というもの。
「感謝する、矢神礼。目が覚めたぞ」
彼はピアノ越しに自らのライバルを見据えて言った。
「さあ、お前の復讐を俺に存分に見せてくれ!」
それを聞き、矢神は口端を上げる。
「行くぞ……神威レイジ!!」
矢神礼
「交響曲第一番」
神威レイジ
「交響曲第九番 合唱付き」
神威レイジの選曲はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第九』。この楽曲はベートーヴェンの最も偉大な作品であると同時に、人間賛歌の楽曲である。彼はこの楽曲の詩に、シラーの詩「喜びの歌」の冒頭に、自ら加筆した歌詞を与えている。
──おお、友よ、このような響きではない!
──もっと心地良い歌を、
──もっと歓びにあふれた歌を、
──歌おうではないか!
これはレイジから矢神への挑戦状だ。
現状で満足出来るか?
もっと上へと登ってくることが出来るか?
この私についてくることが出来るか?
レイジはその叫びを第九に乗せて矢神にぶつける。
対して矢神も自らの炎をその指にくゆらせていた。
ヨハネス・ブラームス作曲「交響曲第一番」。
ベートーヴェンの死後、交響曲は闇の時代を迎える。およそ五十年に渡ってこれといった作品が生まれなかったのだ。それはベートーヴェンの最後の交響曲、「第九」があまりにも完成度が高かったことが遠因となっている。人々はベートーヴェンの絶対的な音楽を畏敬するあまり、交響曲を書かなくなった。絶対的に越えられない壁を突きつけられ、圧倒的な光により、闇の時代が訪れた。
しかし、ヨハネス・ブラームスは違った。通常数ヶ月から数年で作曲される交響曲を苦節二十一年もの歳月をかけ、対ベートーヴェンを徹底的に意識して作りあげた交響曲最高傑作のひとつ。それがこの「交響曲第一番」なのだ。この楽曲はベートーヴェンの失われた交響曲第十番とさえ呼ばれ、交響曲の闇の時代を斬り裂いた光明だった。
矢神はずっと神威レイジを追ってきた。しかし、追うことには既に飽きつつあった。
「越えなくてはな!」
矢神は叫ぶ。
「そうだ! 私を越えてみせろ! 矢神!」
第九番と第一番が激しく火花を散らし激突する。闇の半世紀を過去と未来から挟む二つの閃光が、二人の音楽を絶対的な領域へと昇華させていく。
矢神が斬り、神威が裂き、音という音が互いに互いを破壊し、そこからあらたな音が創造される。音楽というものは常に破壊と創造によって成り立ってきた。かつて許されなかったルールを破壊し新たな楽器を取り入れ、新たなジャンルを創造し、それらが混ざり合ってまた新たな音楽が生まれていく。そうして紡がれてきた歴史の厚みが、今の音楽の背後には無数に連なっている。
破壊と創造。会場内の壮絶なまでの衝撃に観客たちは恐れ、歓喜し、戦き、叫ぶ。その声すらも音として、ひとつの合唱として矢神とレイジは自らの音に変えていく。すべての音という音を、音楽に変えて……。
「楽しいかレイジ……音楽は楽しいだろう……!」
「ああ、楽しい……! 誰に許可を取る必要もない。自由に解釈し、自由に奏で、自由に楽しむ。これ以上ない程に愉快で堪らない! 今まで忘れていた。苦痛と焦燥と悲哀の中に置き忘れてきた感情が、お前との演奏の中で蘇ってくる!」
それは正しく歓喜の歌だった。
互いの魂をぶつけあい、理解しあい、ともに音楽を作る歓び。
フリースタイルピアニズムは、それを可能にする自由の音楽の場であり、互いに競い研鑽し至上の音楽を目指す祭典だ。
救世主神威レイジは、魔王矢神礼との戦いの中で、音楽の在り方を再確認した。音楽とは、それを奏でる奏者と、聴き手が、そこにいる全員が楽しむためのものなのだ。そして……それは誰に遠慮するものでもない。かつてレイジは矢神櫂を殺した。それがトラウマとなり、彼は本気で演奏することが出来なくなっていた。だが、今、この瞬間だけは……!
矢神はレイジの全てを受け止める。そしてそれを自らの武器として再度レイジに叩きつける。
今の矢神は、矢神櫂を越えている。
それを実感したレイジは、心置きなく自らの全力を彼に叩き込んだ。これで負ければ完敗だ。そうとしか思えないほどの全力。殺してしまっても構わない。矢神はそれを承知の上で戦っている。自分だってそうだ。限界を超える限界の演奏をしようではないか! 絶対と絶対をぶつけあおうではないか! 俺たちは止まらない! 最果てを経てなお前に進み続ける前進者だ!
そう宣言するかのように、ふたりの音楽は最終局面へと到達する。自らの人生の全てを音にして、自らの鍛錬の全てを音にして、自らの信念の全てを音にして……。
全ての音が止み、会場に静寂が訪れる。
誰も聞いたことのない圧倒的な演奏。しかし、これはあくまでも競技であり、競技である以上は勝者があり、敗者がいる。全てが終わったと全員が悟るのには時間を要した。それだけの混乱を巻き起こすだけの試合が、このステージの上にはあったのだ。
「勝者…………矢神礼!」
審判の声を聞き、矢神はレイジのほうを見た。
「負けた。お前の勝ちだ」
レイジは矢神の手を取り、それを天高く突き上げた。
矢神はふっと微笑み、それから観客席のシロたちのほうを見た。彼女たちの拍手を聞きながら、矢神は呟く。
「全力の試合の後の拍手は心地が良いな。これもまた音楽だ」
「ああ……」
そして、隣の神威レイジは、力尽きたようにしてその場に倒れ込んだ。矢神は一瞬驚き、審判に救護を呼ぶように伝えた。
「大丈夫か、レイジ……」
「軽い立ちくらみだ。心配には及ばない……。それにしても、いいのか? 復讐相手の心配などして……」
それを聞き、矢神は笑う。
「僕の復讐は終わったさ。君の目論みはもう断ち切れた」
「それもそうか……」
レイジは瞼を瞑り、呟く。
「俺はもう疲れた。今回の試合は楽しかったが、暫くの間は休養が取りたい……」
「ああ、今までのぶん充分に休め」
「そう言ってくれるとありがたい。……もう、寝てもいいか」
「ああ」
「それじゃあ、後は……任せた……」
そう言い残し、レイジは意識を手放した。
本人は軽い立ちくらみと言っていたが、そんなはずはない。命懸けの演奏だった。矢神櫂を殺した時と同等か、それ以上の試合だったと矢神は思う。もちろん、観客席から見たあの試合と、実際に自分で演奏したこの試合を純粋に比較することは出来ない。ただ、良い試合だった事だけは確かだ。
担架が運ばれてくると、レイジはそれに乗せられて運ばれていった。全身傷だらけの矢神のもとにシロが駆け寄ってくる。
「矢神……大丈夫!?」
「ああ、シロ……。なんとかね」
「復讐……果たせた?」
シロの問いに、矢神はニッと微笑み親指を立てた。
「見ただろう? 僕の完全勝利だった」
それを聞きシロは涙ぐむ。
十年越しの戦いが、ようやく終わったのだ。今までの矢神の苦労が、やっと報われたのだ。そのことを想い、シロは頬に涙が流れるのを感じた。
「あれ……おかしいな……シロが泣く場面じゃないのに……」
「シロも一緒に戦ってくれただろ?」
「えへへ……そうだったね」
シロは涙を拭うと、満面の笑みで矢神に抱きついた。
瞬間、背後のモニターが、勝敗の表示から赤い画面へと切り替わった。そこに映し出されたのは、シロがいた研究所から拝借してきたデータだった。様々な人道を無視した実験の数々が明るみに晒され、観客席に動揺が走る。
舞台袖から、ステージの上に、開瞳弦示が歩いてくる。
「盛り上がっているところ、誠に申し訳ない。私は開瞳弦示。みなさん、ここに映された映像はフィクションではありません。全て、現実で起こっている出来事です」
開瞳はマイクを片手に、会場のモニターを指して言った。
「これを行っている組織の名は極東音学研究機関第第ゼロ号支部……この大会の主要なスポンサーのひとつ、新生堂の傘下にある組織です」
その言葉に会場はどよめく。
「この研究機関は音楽の才能を集め、軍事利用を目的に研究を行い、次世代型兵器としての音響兵器の開発を行う軍事機関のひとつであり、この大会も、そのデータの収集を目的に開催されたということが判明しました」
マスコミにカメラを向けられながら、開瞳は宣言する。
「私、開瞳弦示はこの組織の人道に反した研究に対して断固として抗議したいと考えている!私はこの機関に関する複数の決定的な証拠を握っており、それらも全て後日公開するつもりでいる。詳細は後ほど、会見を開き追って説明させてもらう。以上!」
開瞳はそう言って、矢神とシロを連れてステージを後にした。
観客たちは突然現れた音楽界の重鎮、開瞳弦示の言葉に動揺しどよめきを隠せないでいる。
矢神は開瞳を見上げ、問う。
「一番盛り上がったタイミングでの暴露……これがアンタの言っていた最高のエンターテイメントか?」
その問いに、開瞳は真顔のまま答える。
「これは上に立つ者の責任と義務だ。組織は必ず撲滅しなければならない。だが、内情をただリークしただけではマスコミはすぐに飽きてしまうだろう。奴らを徹底的に叩き潰すためには、より大々的に宣伝する必要があった。ただそれだけのことだ。水を差したようなら謝罪する。すまなかったな」
それを聞き、矢神はシロと顔を合わせた。
シロは頷き、それを見た矢神は言った。
「構わない。シロのような被害者が今後少しでも減るのなら」
「うん。シロもそれが一番いいと思う!」
それを聞き、開瞳は頷いた。
その瞬間、ステージ状にスポットライトが落ちてきた。大きな音を立てガラスが割れ、会場を支える柱にヒビが入っていく。観客たちは警備員の指示に従って会場から避難を始める。
パニックになった会場を舞台袖から眺め、開瞳は呟く。
「お前の親父の試合の時と同じだな。あまりにも強大な演奏に会場が持たなかった。しかし、今回は死人が出ていない。運が良かった」
「運じゃない。僕とレイジが強かったからだ」
それを聞き、開瞳は微笑む。
「生意気を言いおって……。さあ、俺たちも逃げるぞ」
そう言って振り返った先、一人の少女が矢神たちの前に立ちはだかっていた。
「神威レイジとの戦いは準決勝。まだ……決勝戦が終わってないよ?」
彼女はニヤリと笑い、崩壊していくステージ上を歩いていく。
「私との約束、まさか忘れてないよね?」
勇気ミライ……。
彼女の挑戦的な言葉を受け、矢神とシロは顔を合わせ、それから言った。
「ああ」
「望むところだよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます