第17話 『アカシック・レコード』

「目が覚めたようだな」


 矢神は視界に映る真っ暗な星空を見上げ、それから体を起こした。


 ここは何もない湖の水面……風ひとつ立たず、まるで鏡のように星空を水面に映し、そこはまるで宇宙の中心にいるかのように感じさせる船の上。矢神はオールを漕ぐ男と視線を合わせた。


「まさかこんな場所にまで来るとは、流石に僕も参ったよ。礼」

「父、さん……?」


 矢神の父は、ふっと笑い、それから漕いでいたオールを置いて、手を組んで矢神の前で息をついた。


「なんで、ここに父さんが……? 僕は……レイジの過去の記憶に潜り込んで……」

「アカシック・レコードさ」


 矢神の父はそう言って続ける。


「人々の意識は深層心理の部分で繋がっている。仏教で言うところの阿頼耶識、西洋文化圏ではアカシック・レコードと、まあ様々に呼ばれている。礼はレイジの深層心理を通して、こうして僕のところに辿り着いた……というわけらしい」

「父さんは死んでいないのか……?」

「いいや、死んでいるさ。ここは死者の魂の中にある心象風景だ。僕の心の中の景色……とでも言えば分かりやすいかな」


 矢神は一面を見渡す。どこまでも続くような夜の湖。地平線には木々の影が生い茂り、上を見れば星が瞬き、下を見ても、水面に星が瞬いている。


「良い場所だろう? ここには上も下もない。地上にあって宇宙のような場所だ。とても静かで心地良い。もしもこんな場所でピアノが弾けたら、とても気分が良いだろうな」


 矢神櫂はそう言って、少し前のめりになって矢神に問う。


「お前は俺を追って……いや、俺を殺した神威レイジを追ってここまでやってきた。そうだな?」

「ああ……」

「後悔はあるか?」


 それを聞き、矢神は真っ直ぐな瞳で答える。


「ない」


 矢神櫂は微笑む。


「そうか。それならよかったよ。流石は僕の子だ」

「ここに来るまでに沢山大変なことがあったよ。でも、それだけ楽しいこともあったんだ。その釣り合いが取れているのか、バランスが取れているのかは分からないけど……でも、嬉しいことがあったことだけは事実なんだ」


 矢神はそう言って、空を見上げた。


「シロもアリアも伊藤も、柏木や開瞳も、僕にとっては大切な人たちなんだ。復讐に溺れた僕に手を差し伸べてくれた人たちがこんなにもいた。中には利用しているだけの男も……まあこれは開瞳のことだけど……いたけど、それでも、お互いに無関心でいるよりは、ああやってお互いに利用しあって愛憎混じった関係でいたほうが愉快だったと、結果的には思っている」

「弦示の相手は面倒だっただろ?」

「うん。でもそれ以外のみんなも、それ相応に面倒だった」


 矢神の答えを聞き、櫂は笑った。


「ああ、人間は面倒だ。面倒だからこそ面白い。そこに個性がある。その個性を、礼は音楽を通して体験してきた。人によって、その体験方法はそれぞれだ。お前は立派に成長したよ。僕からは何も言わずとも……成長した。正直、僕には少し心残りだったんだ。親としての役目を果たせずに、こっちに来てしまったことがね」


 櫂は俯くが、しかし礼の顔を見据えて言った。


「でも、ありがとう。お前と、お前の周りにいてくれた全ての人に感謝する。話していて分かった。お前はもう、他者の痛みが分かるようになっているんだな」

「僕の能力は他者と過去を共有する能力だ。あれだけ他者の痛みを実感すれば、嫌でもそうなるよ」

「それもそうか。それがお前の良いところであり、弱点でもあるわけだ」


 櫂はオールを持つと、船を漕ぎ始める。


「レイジの過去も見たんだろう? アイツの事情は分かってくれたか?」

「ああ……。何となく。始めからそんな気はしていたが……面倒極まりない奴だった」

「思い込みが激しくて、僕の言ったことを曲解して、勝手に地獄に突っ走ってしまった哀れな男だ」

「まあ、それを言えば僕も、自分から復讐という地獄の道を選んだ哀れな男だ。この世に哀れでない奴なんていないのかもしれない」


 櫂は矢神に問う。


「さあ、その上でお前はどうする。矢神礼……。お前の答えを教えてくれ」


 矢神はオールを漕ぐ櫂に問われ、それから顔を上げて言った。


「僕はピアニストだ。ピアノで決着をつけるよ」

「それがお前の答えなんだな?」

「ああ……後のことはそれから考える」

「まあそれもいいか……。お前はまだ生きているからな」


 櫂はオールを漕ぎ、矢神は船の上を立ち上がる。


「行ってこい、お前の戦いを終わらせに。そしてこれから始まる数多の戦いに身を賭してこい」


 そう言われ、矢神はフッと微笑む。


「言われずともそうするつもりさ。丁度追うのは飽きてきた頃合いだったんだ。……父さん、最後に話が出来てよかったよ」


 矢神は船のへりに足を掛け、それから水面を見下ろした。この宇宙は神威レイジという男を通して奇跡的

に矢神櫂へと繋がったアカシック・レコードの一端。一度戻れば、恐らくはもう二度とこちらにやってくることは出来ないだろう。だが、それでも矢神は戻らなくてはならない。


 神威レイジとの決着がまだ着いていないからだ。

 矢神は振り返って言った。櫂はそれに笑顔で応えた。


「それじゃあ、行ってくる!」

「ああ、行ってこい!」

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