第15話 『偽りの救世主』
打鍵──。
二つの音楽が、火花を散らし、激しく爆ぜる。
矢神礼
「ピアノ協奏曲 第二番」
神威レイジ
「星空の下の夕べの歌」
矢神の選曲はセルゲイ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」……。
ラフマニノフはアリアが歌った「ヴォカリーズ」の作曲家であり、この楽曲は全てのピアノ協奏曲の中でも最高の楽曲の一つとして有名であり、その難易度・美しさともに高いレベルに仕上がっている。
ラフマニノフはこの楽曲を制作するまで作曲家としても、一個人としての私生活レベルでも強いストレスに晒されており、心身共に衰弱していた。しかし、彼は友人のすすめにより精神科医であるニコライ・ダーリの治療を受け、精神を回復しスランプを克服。そして、その恩に報いる形でこの楽曲を作曲し、これをニコライ・ダーリに献呈した。
矢神はこの十年間の過酷の中で、多くの人の助けを借りてここまで辿り着いた。それは本人の並み外れた努力の賜物でもある。しかし、過酷な試練を与えた開瞳、ここまで支えてくれた伊藤、誤解を解き御祓をしてくれたアリア、そしてマイクロチップを破壊し、矢神の帰りを待っていてくれたシロ……。全員のおかげで、この戦いは成り立っている。
矢神はその感謝を込めて、この一曲目の楽曲、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲 第二番」を奏でる。
美しい旋律の中に情熱を込めて、矢神の演奏が観客席を魅了する。
それに対し、レイジは獲物を狙う猛禽類のような瞳で矢神のことを見据えている。
星空の下の夕べの歌。
ベートーヴェンの最期の十年に書かれた作品のうちのひとつ。作詞家であるハインリッヒ・ケーブルの生没年は不明だが、この歌は人の人生をこう歌い上げている。『日が沈み、一日が憩うとき、帳が降りる。魂はこの世から放たれ、あの世から届く密かな予感に身を震わせる。地上での巡礼はそう長くは続かない』……。
矢神はレイジのこの選曲に並々ならぬ何かを感じていた。矢神が自らの感謝の念をピアノ協奏曲第二番に乗せているのなら、レイジは星空の下の夕べの歌に、同じように自らの感情を乗せているのだ。
曲構成はこの曲を含めて二曲……。互いに一曲目に自らの思いを込めた楽曲を選んだが、三曲目には何を選ぶか……。矢神は指を踊らせながら、レイジは矢神を見据えながら、自らに問う。
フリースタイルピアニズムはルール無用の音楽による殴り合いだ。従って、今まであった、事前に用意した曲を弾く前に開示しておくというルールも存在していない。相手の出方を窺い、その場その場で一番だと思われる選曲をする。それが今回の試合の在り方だ。
「矢神の楽曲……なんだか暖かい……」
シロは演奏を聴きながら微笑んだ。天使のような柔らかい笑みで、矢神のことを見下ろす。
「シロ……やっぱり矢神の演奏が好き。矢神の演奏を聴くと勇気が出てくる。それに……矢神はシロに自由をくれた……。矢神も、この戦いを自由に戦ってほしい……」
「アイツはいつだって自由だ。自ら地獄に飛び込んで、地獄の中で藻掻き苦しんで、それでも奴は自由であり続けたんだ」
二つの曲はもつれ合い絡み合って会場全体に衝撃波を放っている。軋みを上げる会場の中で、それでも観客たちは矢神とレイジの演奏に聴き入っていた。
「矢神……お前は虚しくはないのか? 人生の大半を復讐に費やし、無益な復讐のために地獄を味わい自らの人生を無為に燃やし、それで一体何になる? それで一体何が得られる?」
その問いに矢神は答える。
「多くの物を手に入れた。ピアノを演奏する技術、それによって得られる楽しさ、この道を選んだからこそ出会えた人たち……人生の中に無駄なことなんて何一つない。全てのことに意味はある」
「復讐の道を選ばなければ、より良い道があったかもしれないんだぞ」
「自分で選んだ道だ。後悔はない」
それを聞きレイジは歯噛みする。
「矢神、お前は恵まれている」
レイジは瞳に赤い炎を燃やし、自らの指を加速させる。
「鬱塞シロを見て哀れに思わないか? 自らの意思に反して監禁され、実験動物として扱われ……お前は施設に行って見てきたのだろう? ならばその理不尽を知っているはずだ。矢神、お前は望んで地獄に踏み入った身だ。だが、望まずして地獄に落ちた者たちも確かに存在している。その者たちの嘆きは一体どうする?」
「お前を殺して、組織の悪事を社会に暴くまでだ。何を語ろうが、お前がそれを利用していることに変わりはない」
「ああ、そうだ。私は彼らを利用している。だが、同時に私は彼らの救世主でもあるのだ。この世界にはあの組織がやっている以上の残酷がいくらでも転がっている。戦争や紛争、日常的な家庭内暴力や虐待、蔓延る差別、いじめ、無為ないがみ合い……この世には、それぞれの形でそれぞれの地獄が無数に転がっている。そんな地獄ばかりのこの世の中に、一体何の未練があるというのだ? この世界に生き続けることに一体何の価値があるというのだ? 私の計画はそれに対するたった一つの絶対的な回答だ。全ての人間を肉体の枷から、この世という牢獄から解放する……それによって、真の安らぎをもたらすのだ。もう誰も、地獄を味わわずに済む……。矢神、なぜそれが分からない……?」
「それを経験することで人は成長するからだ」
救世主の問いに魔王は答える。
「お前の言う通り、この世の地獄は終わらない。だが……僕はその地獄を全否定しようとは思わない。シロも僕も地獄から這い上がってここまで来た。伊藤も、柏木も、アリアも、全員が自分の中にある地獄と折り合いを付けてここまで来たんだ……。どうしようもないことをどうにかするために、僕たちは足掻いているんだ。足掻いて、藻掻いて、仲間を見付けて、共に手を取り合って這い上がるんだ」
「だったら鬱塞シロは……組織に囚われた者たちはどうすればいい! 全員が全員、鬱塞シロのように運良く助かるとは限らないのだぞ!」
「それを今どうにかしようとしている!」
矢神はレイジに音圧を叩き付ける。
「……ッ!」
「お前を殺して組織を潰す。そうすれば少なくともシロのような理不尽を受けた子たちは解放される。それでも……心に負った傷は癒えないだろう。地獄はいつまでも続くんだ。僕たちは地獄の中で、地獄と向きあい、地獄を利用し、這い上がるしかないんだ。さあ、神威レイジ……最期に聴かせてもらおうか、嘘偽りのない、お前自身の本当の音色を……真実の地獄を……!」
「やるならやってみろ! お前が何を言おうが私は真の救世主だ。そして、救世主に抗うお前はさながら魔王と言った風合いか」
矢神の瞳に赤い炎が宿る。
両手を構え、目の前のピアノに全神経を集中する。
「さあ、聴かせてもらおうか!! 君の"過去"の旋律を――ッ!!」
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