第9話 『愛と絆』
矢神礼・伊藤星二
『イタリア協奏曲』
柏木大地・聖域アリア
『G線上のアリア』
二つの音楽が、最高の舞台で、最高の状態でぶつかりあった。
その衝撃波で会場は軋みを上げ、観客達は思わず動揺する。
「両者ともにバッハ! フハハハハハハハ! 奴らの因縁は底なしだな!」
開瞳の横でシロが呟く。
「二人の雰囲気が変わった……? 矢神の能力の影響……?」
聖域アリアは自らの声をあらゆる楽器に変換し、通常ではありえない声による演奏を披露する。人の手によって、道具を介さず行われる奇跡を前にして観客たちは息を飲む。対する矢神は地に足を付けた演奏でアリアの歌唱に耐える。
先ほどの爆発以前の体勢に戻った形だが、それだけではない。
「矢神の調子が良い……これは……」
「忘れたか鬱塞の嬢ちゃん? 矢神礼は俺の最高傑作の一人、ピアノの『魔王』だ。お前さんと戦った時のことをよく思い出せ」
そう言われ、自分が矢神と戦った時のことを思い出す。
「矢神の演奏は、まるで私の手をとって踊るような演奏だった……でも、あれはどうやってやってたんだろう……」
冷静になって考えてみると不思議だ。両者ともに別の音楽を繰り広げるこの大会において、二人の奏者が手を取り合って踊るかのような演奏になるはずがない。大抵の場合、どちらかの音楽が暴力的に一方を叩きのめし、それによって勝敗が決するはず……。
そして、シロはあることに思い至る。
「矢神は……私の演奏に歩調を合わせてくれていた……音符同士で手を取り合うように……」
「そうだ。それが矢神の演奏の強みだ」
「矢神の……強み……?」
「音符の粒を正確に見抜き、それが自らのものであろうと敵のものであろうと構わず利用し、自らの音楽の一部にしてしまう。『魔王』矢神礼は、音符を『支配』する天才だ。そして……」
四人の演奏を見つめ、そこからこの戦いの本質をシロは見抜く。
「二人ともバッハの楽曲……ということは……」
「作曲者にも手癖や個性というものがある。同じ作曲者の楽曲の場合、矢神の本領がより強く発揮される。矢神が支配しているのはイタリア協奏曲だけではない! G線上のアリアも、奴の手中にあるということだ!」
アリアの歌唱を利用して、矢神の演奏が補強される。アリアが矢神を倒すために力を出す程に、矢神の力もまた強くなる。そうしてお互いに強めあう状況が、今、目の前で起きている異常の正体だ。
「聖域さんの歌唱は凄い。だけど、矢神はそれを利用して上手く立ち回ってる……この戦い……勝敗が付かない!!」
「ところがどっこい、その勝敗を分ける存在が『
「伊藤と……柏木……!」
イタリア協奏曲に合わせ体をしならせる伊藤と、アリアを確実に補強する柏木……。
この二人の変数が勝敗を分けるキーになる……。
ピアノ越しに矢神とアリアは視線を合わせた。
(矢神くん……分かってくれたよね? 私は……私はピアノを諦めたわけじゃないんだよ。ただ、私は自分の才能を最大限に活かせる場所で……本気を出せるもので……矢神くんを倒したいって思ったの! だって、そうじゃなきゃ、『最高』にはならないでしょ……?)
アリアは赤い瞳に炎をくゆらせ、楽しげに口端を上げた。
G線上のアリア。
それはヨハン・セバスティアン・バッハ作曲の『エール』をドイツのヴァイオリニスト、アウグスト・ヴィルヘルミがピアノ伴奏付きのヴァイオリン楽曲に編曲したものの通称だ。名称に付く『G線上の』とは、この楽曲がヴァイオリンの最も低音の弦、G弦のみで演奏可能な楽曲であることに由来している。そしてアリアはこの楽曲をさらにオーケストラアレンジすることで自らの技量を存分に活かしている。
アリアは何か一つのものを極めることが出来なかった。それは彼女の中に、それに対する『愛情』が欠けていたからに他ならない。サッカーや野球やピアノ、あらゆるものの才能がありながら、それに対して打ち込める程の愛はない……。
最高の才能の最後のピースは、『愛』の強さによって決まる──。
そして矢神礼は……聖域アリアよりピアノのことを愛している。なれば、共にピアノを極めた先においては矢神がアリアに勝利することは必然……。同等の才能がある者同士が戦うことになれば、最後に勝敗を分けるのは精神力だ。
そして、その精神力においてアリアは矢神に勝てない。
そこでアリアは自らに欠けた精神力に『全てに対して同等に発動する自分自身の希有な才能』で抗うことに決めた。アリアはあらゆる楽器を習得し、その音を体感してきた。海外のプロの下で全ての楽器の音を耳に刻んできた。だからこそ、彼女は自らの声で、それら全てを再現することが出来る。
これが……ピアノに対して一途な愛を向ける矢神礼に対抗するために彼女が編み出した、聖域アリアの最強の方程式……。
全方位全楽器による集中砲火。自らの聖域を展開することによる、圧倒的な物量による暴力的な音楽! それが、彼女の目指す、彼女が出来る、『最高の』戦い方……。
(矢神くん……私がこの曲を選んだ理由はね……ひとつのものに打ち込めるあなたを、私が尊敬しているからだよ……。それはまさしくG弦だけに全てを賭けるような生き様だから……)
アリアの考えに呼応するように、矢神は鍵盤上に縦横無尽に指を駆け回らせる。
イタリア協奏曲。
『協奏曲』とは、独奏楽器とオーケストラによって成り立つジャンルである。
この曲は『協奏曲』と名付けられているが、その実体は『協奏曲』ではなく、オーケストラを必要としない『独奏曲』である。
ではなぜこの楽曲が協奏曲と名付けられるのか。それは『まるで協奏曲であるかのように、独奏する』ことがこの楽曲の特徴であるからだ。たった一人で独奏楽器の『繊細さ』とオーケストラの『重厚感』を表現するこの楽曲を矢神が選んだのは、対戦相手である聖域アリアに対する意趣返しのつもりであった。
しかし、今は違う感情を持ってこの楽曲を演奏している。
たったひとつの声帯で全てを奏でる彼女の能力と、それを得るために努力を重ねた彼女の過去に対して、このイタリア協奏曲は最大の賛辞となることだろう。
アリアがG線上のアリアに、矢神がイタリア協奏曲に、共に互いの健闘を称える感情を乗せて演奏している。そのハーモニーが、会場の中に暖かな感情の光を灯していく。
(聖域アリア……僕はずっと、君がピアノに飽きてしまったのだとばかり思っていた。でも、実際は違う。君は音楽と自らの才能に対して誰よりも真摯に向き合い、自分にしか出来ない表現を会得するために足掻いてきた……そして……この戦いこそが……)
(私と矢神くんの……約束の戦い。最高の……戦いだよ!)
矢神の指が加速し、繊細さと重厚さを以てアリアの圧倒的物量を相手取る。同じ作曲者の楽曲を、違う楽器を以て、同じ戦場でぶつけあう。互いの本気を試しあい、自らの才能を見せ付けあう。
そんな二人の激闘の中、柏木は不敵に微笑む。
(聖域さん、良かった……。やっと矢神くんとの誤解が解けて、夢の決戦を果たすことが出来たんだね……)
彼のピアノは既に限界を迎えていた。天才たち三人に揉まれながら、それでも何とか立ち続け、アリアをここまで支えてきた。しかし、すでに高音の弦が数本切れている。矢神とアリアの凄まじい音圧により楽譜が舞い、鍵盤が灼熱に溶けていく。
(凡才が付いていけるのはここまでかな……。あとは任せたよ、聖域さん……!)
柏木は残された音を全て使って、油断した一人の天才に食らいついた。
(な……コイツ! 今まで自我を出さなかったクセに……!)
矢神とアリアに集中していた伊藤は、突如として横槍を刺し込んできた柏木に反応することすら出来なかった。
「クソ……このッ!!」
それは、柏木大地がただの凡才ではないことの証明であった。
「ここからは聖域さんたちの舞台だ! 僕と一緒に沈んでください!!」
柏木の放った音圧により伊藤は舞台から弾き出され、その衝撃で柏木のピアノは全壊する。
彼は立ち上がり、言った。
「僕の役目は終えました」
彼は手に付いた煤を払い、舞台袖へと退場していく。
「さあ、舞台は整えましたよ。存分に魅せてください……。聖域さんの、本気の歌唱を……」
†
二曲目が終わり、矢神はピアノ越しにアリアのほうを見た。
アリアは赤い瞳で矢神のほうを見て、微笑む。
「矢神くん……分かってくれた?」
「アリア……。君は一体……どれだけ口下手なんだ……?」
「だって……私は……間違ったことは言ってない……」
「『ピアノなんかもう弾かない』とか、『私にはピアノはもう必要ない』とか……僕は、君がピアノに飽きてしまったのだと思っていた……。君にとってのピアノはその程度のものだったのかと……」
「ち、ちがう! 私は……私はただ……」
「分かっているよ」
矢神は呆れたように笑い、それから聖域のほうを真っ直ぐに見据えて言った。
「君は逃げたんじゃない。君は、向き合っていたんだ。誰よりも真摯に、誰よりも真っ直ぐに、僕と戦うことを望んでくれた。君の今の歌唱を聴いて分かったよ。今まで頑張ってくれてありがとう」
その言葉に、聖域の赤い瞳は揺れる。そして、大粒の涙が頬を伝う。
「矢神くん……私……ずっと矢神くんを……潰すために……」
「……。倒すためにだね」
「倒すために……頑張って、きて……! うぁあああああん!!」
アリアは零れ落ちる涙を拭いながら、続ける。
「私……矢神くんがたった一人の、初めての友達で……矢神くんに……喜んで欲しくて……だから! だからぁ!!!」
矢神は椅子から立ち、アリアのもとに歩いて行く。そして、彼女の背をさすった。
「分かってる。今、君の歌を聴いて分かった。もう言葉なんて必要無いよ」
「うん……」
アリアは顔を上げ、矢神に問う。
「最後の曲で……決着を付けよう……?」
それを聞き、矢神は口端を上げた。
「最初からそのつもりだ」
矢神とアリアは審査員から試合継続の意思を問われ、両者ともに頷く。矢神は椅子に座り、アリアは涙を拭う。アリアの喉は銀河鉄道とG線上のアリアの二曲を経て限界に近付いている。矢神のピアノもボロボロだ。だが、最後の一曲を終えるだけの体力は両者ともに残っている。
「いくよ……矢神くん!」
「望むところだ……!」
打鍵。
矢神礼
『愛の夢 第三番 おお、愛しうる限り愛せ』
聖域アリア
『ヴォカリーズ』
愛の夢。
この楽曲を作曲したフランツ・リストは『ピアノの魔術師』の異名で知られた
矢神はアリアが長年かけて自らのためにその腕前を磨いてきたことに対して敬意を示し、この楽曲をもって自らのピアノへの愛を表明する。『ピアノの魔術師』フランツ・リストの愛の夢をもって……。
矢神の超絶技巧のピアノの前に、アリアの美しい歌が蝶のように舞った。
ヴォカリーズ。
矢神の選曲とは対象的に、この楽曲の作曲家、セルゲイ・ラフマニノフは計八十曲以上の歌曲を書き上げた作曲家であり、このヴォカリーズはそんな歌曲作曲家であるラフマニノフの最高傑作のうちの一つである。そして、その八十の歌曲のうちで、唯一、歌詞がないのがこのヴォカリーズなのだ。
本来、ヴォカリーズとは『あいうえお』といった母音のみを用いた歌の練習法を指す音楽用語だった。しかしラフマニノフの生きた時代は芸術の分野で目に見えないものを表現する『象徴主義』が流行しており、この流れが歌曲の中にも取り入れられ始めていた。ラフマニノフのヴォカリーズは、こうした経緯から歌詞のない歌曲として作られ、結果、歌詞がないが故にあらゆる国で愛される楽曲となった。
アリアは喋ることが苦手だ。言葉があまり好きではない。自分の思うとおりに使えないツールである『言葉』……それを捨てて、歌詞のないヴォカリーズを歌う。これは決して逃げではない。自らの思いを、決意を最大限に表明する方法が、このヴォカリーズなのだ。
矢神のピアノに対する愛と、アリアの歌による自己表現が、会場の中で互いに火花を散らしてぶつかり合う。それは音楽という芸術そのものの輝きでもある。自己の内面を音で現し、弾き手の思いを乗せて聴き手との対話を図る。
開瞳はそんな二人の演奏を聴きながら、微笑む。
「最高傑作と最高傑作……その二つがぶつかりあい、高めあい、理解しあう。芸術の中に生まれるたった一瞬の奇跡の瞬間……それこそが、舞台の上にしか成り立たないエンターテイメントだ……」
シロはアリアの歌声のあまりの美しさに思わず息を飲む。
「シロ……ずっとピアノだけを弾いてきた。だから他の楽器のことは何も知らない。だけど……聖域さんがこの一瞬のためだけにどれだけ頑張ってきたのかは、この歌を聴けば分かる……」
舞台袖、座り込んだ伊藤は矢神の演奏を聞きながら呟く。
「矢神はこんな場所で負けるわけにはいかねえんだ……。この十年間、奴は死に物狂いでピアノを弾いてきた。アイツのピアノに向ける愛は本物だ……」
柏木はアリアの歌唱を聴きながら瞼を閉じる。
「今日この時のために、聖域さんは自分自身の進むべき道を、磨くべき武器を探し、鍛えてきた……。その結果がどうあれ、僕はこの試合を最後まで見届け、一生忘れない」
ピアノと歌と、愛と絆と……その全てをこの会場に送り届けて……。
第二回戦、ダブルス・ピアニズム。
矢神とアリアは最後の音を奏で終えると、審査員によるその勝敗を聞きとどけ、一方は微笑み、もう一方も、悔しげに微笑んだ。
「矢神くん、次は……負けないよ!」
「ああ、またやろう……!」
第二回戦──勝者、矢神礼・伊藤星二
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