第8話 『聖域アリア』

 私は昔からひとりぼっちだった。


 でも、ひとりでもいいと思っていた。


 容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能……しかし、人間性に難あり。それが周囲から見た私、聖域アリアという人間だった。何をやらせても一人で全てを為し得てしまう超人。それ一人で完結し、それ一人いれば全ての結果が決まってしまう程の圧倒的巨大変数。バスケをやれば、サッカーをやれば、あらゆる集団競技をやれば、それら全てを個人プレーで上書きしてしまう。


 それだけの才能を抱えて、聖域アリアという人間はこの世に生まれてきた。


「聖域さんって本当に凄いよね……私みたいなモブキャラじゃ近寄り難いっていうか……」

「まさに、『聖域』って感じ……!」

「人を寄せ付けないオーラがあるよね!」

「オーラだけじゃないよ! 実力に才能! 何をやっても一番になっちゃう超人的遺伝子! この前だって女子日本サッカー代表からのスカウト断ったって噂になってたよ!」

「マジ……? その前は野球、そのさらに前は陸上で断ってなかった?」

「なんで断るんだろう……聖域さん、それだけの才能があるならやっちゃえばいいのにね……」

「あ、聖域さん……」

「こ、こんにちは……!」


 中学三年生の夏、廊下を歩いているとそんな声が聞こえた。

 私は彼女たちの声を聞こえないフリをして、ただ通り過ぎる。それだけで彼女たちの視線は私の後を付いてくる。


「ちょっとアンタやめなって! 私たち凡人が聖域さんに話かけるとかおこがましいから……」

「でも、聖域さんも挨拶くらい返してくれてもいいのにね……」

「あの人は一人が好きなんでしょ。私たちみたいな凡才には興味がないっていうか、話すだけ無駄っていうか……」

「孤高の人だよね~……」


 違うのに。

 私は、ただ話しかけられると思わなくて、でも話しかけられて……どうしたらいいのか分からなくなって思わず早歩きで通りすぎてしまっただけ。だから、私はそこで歩くのを止めた。


 天才だから見下してるなんて思われたくない。みんなのことをどうでもいいと思ってるわけでもない。私のほうから離れていくんじゃない。いつもどこでも誰だって、私じゃなくて、離れて行くのも、近付いて来るのも、全部私じゃなくて、みんなのほうなんだ……。


 私は彼女たちのほうに振り返って言った。


「天才とか凡才とか孤高とか、そんなくだらない話、いつまでしてるつもり? 私にはそんなの関係ない。知ったようなことを言わないで」

「ご、ごめん……」

「謝らなくていい。ただ、改めて」

「う、うん……」


 私はそう言って、教室の扉を開け、自分の席に座る。


(やっちゃったぁああああああ! 絶対に誤解された……っ! 死にたい死にたい死にたい死にたい!!!!)


 私は、人と話すことが苦手だ。自分の思っていることを、考えていることを、上手く言葉にすることが出来ない。人と会話をする才能が私にはない。だから私は他者との関わりを最低限に抑えることにした。私が人からの推薦やスカウトを断るのも全てそのためだ。私が関われば結果は必ず出るだろう。だけど、そこには必ず歪みが生まれる。人間関係がギスギスし出す。

 だから、私は一人でいたほうがいいのだ。


(私なんかが人前に出ちゃダメだ……。いくら才能があったって、私が皆の中に入ったら、それだけでみんなを嫌な気持ちにさせちゃう……だから、私なんか……)


 当時の私は、本気でそう思い込んでいた。

 自意識過剰で恥ずかしいけど、でも、やっぱり私はダメな人間だ。


 でも、そんな私にも人生の転機が訪れた。


「お前のその孤高さが欲しい」


 その男は私の才能ではなく、私の劣った部分を評価した。


「今からお前が出会う相手は、お前を喰らう存在だ。そして、お前は奴のための脇役になれ……」


 脇役になれ。そんな言葉をこの私にかけてきたのは、彼が初めてだった。だから、気になって彼の手の平の上で踊ってみることにした。

 相手の目的が何であれ、私にとってはまたとないチャンスだった。いつだって主役を求められてきた私が、初めて脇役として指名された。このチャンスを使えば、自分の中の何かを、枷を破壊出来るかもしれない……。そう思って、私は彼のもとでピアノの訓練を受けることになった。


「コイツの名前は矢神礼。これからお前のライバルになる相手だ」

「ライバル……?」

「そうだ。あくまで主役は矢神だ。お前は矢神に喰われるための脇役でいい。それ以上のことは望まない」


 開瞳は私にそう言って、目の前の白髪の少年をピアノの前に座らせた。


「聖域アリア……お前さん、ピアノを弾いたことはあるか?」

「……ない」

「音楽の知識は? 何か他の楽器を習ったことは?」

「ない」

「結構。では、今からコイツの演奏を聴いて、素直な感想を言え」

「私、音楽家じゃないから分からないけど」

「いいやお前には分かるはずだ。お前は全てにおいて天才なのだろう? であれば、この演奏がどの程度のものなのかも一目見れば分かるはずだ」


 瞬間、音が響いた。

 音楽を真面目に聞くのは初めてだったけど、それでも彼の演奏が凄いということは一瞬で分かった。紛れもなく彼はプロとしての資質を持っている。いや、その中でもごく一握りの才能をも持っている。


「どうだ」

「頂点を取れると思う」


 それを聞き、開瞳は口端を上げながらさらに問う。


「では、お前が本気を出した場合、どうなる……?」

「私が本気を出した場合は……」



 †



 それから、私は開瞳門下生として、ピアニストとして、修練を受けることになった。


 私の上達速度が早いことは周りの反応を見ればすぐに分かった。スポーツと同じで、こんなものちょっと感覚を掴んで思った通りに指を動かすだけで簡単に弾けてしまう。

 だけど、それだけでは物足りない。


(何かが足りない……)


 私はただひたすらにピアノと向き合い続け、それから、気が付く。


(そうか……音楽には、芸術には感情が必要なんだ……)


 私は自らの技術の中に自らの精神を取り込むことにした。しかし、取り込むべき精神が何であるのかが私にとっては、最大の障壁となっていた。


(音楽は、譜面との……この楽曲を作成した作曲者との対話なんだ……。この人が何を考えて楽曲を作ったのか……この音で何を表現したかったのか……分かろうとしなくちゃいけない。そして、そこに私なりの答えを乗せなくちゃいけない……。それが演奏家が演奏家たる理由……)


 楽譜に書かれたことを正確に演奏するだけなら、ピアニストがピアノの前に座る必要なんて始めから存在しないだろう。今の時代、ロボットの演奏で済む話だし、もっと言えば演奏なんかせずとも、パソコンで音を合成してしまえばそれだけで済む。


 それなのに観客がわざわざ舞台へと足を運ぶのは、演奏家の存在がそこにあるからだ。そこに作曲家の信念だけでなく、演奏家の自我が乗って、その一瞬を輝かせる奇跡が起きるのを、観客たちは見に来ているのだ。


(だったら、私にはピアノの演奏をする才能がない……?)


 私は譜面に書かれた音符を、記号を正確に音に起こしている。指の動きの正確さなら同じ道場の誰にも負けない自信がある。だけど、それはあくまで、譜面のままの演奏に過ぎない。

 私は……ピアノの前に座ると譜面の奴隷になってしまう。


「よし、よく出来た。今日の練習はここまでだ」


 開瞳はそう言ってピアノの蓋を閉じる。私の目の前で。私には何も文句を付けないこの男は、矢神と呼ばれた少年を殴りつけ、怒鳴りつけ、そんな演奏ではダメだと叱咤している。私の背後から聞こえるその罵詈雑言を、私は羨ましいと感じていた。


(そうか……これが、『脇役の気持ち』なんだ)


 開瞳は最初から私のことなんて興味が無かった。私の演奏を高みに連れていく気なんて端から無かった。私が上手いから何も言わないんじゃない。私に興味がないから何も言わないだけなんだ。


「矢神……お前は聖域の演奏にこれっぽっちも追いつけていない! 聖域が倒せないのに、神威レイジが倒せるものか!」


 開瞳が矢神を殴り飛ばす。そうだ。このやり取りのためだけに私はここに連れて来られた。私の才能を利用して、より強い才能を呼び起こすために……私は、矢神くんの起爆材として、ここに連れて来られたのだ。


 それに気付いた瞬間、私は振り返った。

 矢神礼が私のことを見上げている。彼は、きっと私のことを高みの存在だと思っている。だけど、違う。


(羨ましい……)


 彼はきっと私を越える。何でも出来る何の信念もない私なんかより、ピアノだけに命を賭けた彼のほうが、より強い『何か』を持っている……。私は胸の中に幾つもの新しい感情を抱えていた。


 焦燥。

 羨望。

 嫉妬。

 憧憬。


 今まで鬱々としていた心の中に、燃えたぎるように湧き出した衝動。

 私はその日、初めて自分からピアノの蓋を開いた。開瞳によって閉じられたピアノの蓋を。レッスンが終わったというのに、私は自分の意思で、もう一度開いた。


「矢神くん……私と一緒に……弾いてください……!」



 †



 それから私と矢神くんはよく連弾をするようになった。

 もちろん、それはちゃんとした練習の前だったり、後だったり。個人的な時間を使って二人で同じピアノを、同じ曲を共有した。


 初めての感情を教えてくれた彼に、きっと私は恋をしていたんだと思う。


 真夜中の防音室の中で、二人きりで音を奏でることがこんなに楽しいことだなんて思ってもみなかった。


「聖域さんには本物の才能がある。僕よりも凄い才能だ。きっと世界最高峰のピアニストになれると思うよ」

「私は……私はただ、矢神くんを倒したいだけ。矢神くんを越えた存在に私はなりたい……」

「それはどうかな……。僕は現世界最強のピアニスト、神威レイジを倒すためにここにいる。だから、僕の目標は世界で一番のピアニストになることなんだ。だから、君の夢は叶えさせない」

「それは、やってみないと分からないね……」

「それはそうだ。いつか君と、最高の舞台で、お互いに最高の状態で戦う時が来たら……その時は、今よりきっと、ずっと楽しいんだろうな……」


 矢神くんのその言葉を聞いて、私は嬉しかった。


 私は矢神くんを倒す。どんな手段を用いてでも。音楽の楽しさを教えてくれた彼に、音楽を用いて報いたい。彼の中にあるものは、演奏を聴けばすぐに分かる。復讐に燃える彼が好きだ。音楽を愛する彼が好きだ。愛するものに本気な彼が好きだ。


 だから、私は……。



 †


「矢神くん、私はピアノなんかもう弾かない」


 それが私の辿り着いた答えだった。


「……それは、どういう意味だ?」


 彼の言葉に、私はニッと笑い、宣言する。


「私にはピアノはもう必要ない。私には、私の進むべき道がある。そのことが分かったの」


 空港で、私は矢神くんにそう言って別れを告げた。


 開瞳弦示の下にいては、私は脇役のまま終わってしまう。それだけは嫌だった。私には『何でも出来る』という才能がある。矢神くんがピアノの天才であることは既に分かっている。そして、私にもピアノの才能はある。だけど、それだけじゃダメなんだ。矢神くんを倒すためには、それを越えた何かが必要なんだ。


 私は矢神くんのほうには振り返らず、ベルリン行きの飛行機に乗り込んだ。

 どんな楽器でもいい。どんな奏法でもいい。私の心を映し出すのに一番適した最強の楽器を私の武器にして、最強の私になって……いつか、矢神くんを倒してみせる。


『いつか君と、最高の舞台で、お互いに最高の状態で戦う時が来たら……その時は、今よりきっと、ずっと楽しいんだろうな……』


 矢神くんはそう言っていた。

 だから、私は矢神くんの期待に応えないといけない。


 最高の舞台で、最高の状態で……私は、矢神くんと戦いたいから……!

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