第6話 『十年前』

 十年前──

 土砂降りの雨の中、白髪の少年が立ち尽くしている。手には楽譜を握り締め、俯いた顔で呟いた。


「俺に……ピアノを教えてください……」

「お前に……? この俺がか……?」


 壮健な髭を蓄えた屈強な仙人のような男だった。彼は目の前のずぶ濡れの少年を見下ろし、ハッと笑った。


「残念だが、お前のような驕ったガキの面倒を見る暇は俺にはないねえ。いるんだよなあ……お前のような何かを勘違いした、世間を舐め腐った奴らがなぁ……。才能もねえのに俺のところに頭を下げて弟子入りを請いに来るんだ。そんな奴らはこの世にごまんといるがなぁ、俺は実力を証明出来ない奴には用はねえんだ。お前がもし何らかのコンクールで賞を取ってるようなガキならとうの昔に俺の耳に入っているはずだ。才能が無いガキに興味はねえ。帰んな」

「才能が無い……。なぜ、それが分かるんですか……?」

「言っただろ。コンクールに出て結果を出してから来いと。実力を証明した奴にしか俺は相手をしないと言っているんだ」


 そう言った瞬間、男は思わず息を飲んだ。


(このガキ……)


 少年の黄金色の瞳には、赤い炎がギラギラと揺らめいていた。彼はぎゅっと拳を握りしめ、呟く。


「ピアノを……貸してください……。実力を証明出来れば……あなたに弟子入り出来るんですよね……? だったら……今、ここで……すぐにでも……。俺には、時間がないんだ……!」

「……まあ入れよ。軽く一曲見てやるよ」


 男は少年を家に入れ、ピアノの前に連れて来た。


 びしょ濡れの彼は歩く度に雨のしずくを床に落とし、捨て犬のように痩せこけ、フラフラと歩き、しかし腹を空かせた肉食獣のような瞳で目の前のピアノを見下ろした。

 このピアノで自分の存在を証明する。男は彼がそう呟いたように感じた。しかし、実際には少年は何も言ってはいなかった。ただ、そう感じさせるだけの気迫を、彼は背負っていた。


 少年はピアノの前に腰を下ろす。


「楽曲は何でもいい。好きに弾け」


 少年はそれを聞くと、鍵盤の上に指を踊らせた。


 彼は、獣のような鋭い音を発していた。荒削りだが才能があることは最初の一音で見て取れた。指はよくしなり、子供にしては非常な力強さを感じさせ、不完全でありながらも躍動感を感じさせる演奏。ミスをしてもそれを取り戻すガッツがある。何度転んでも立ち上がる根性がある。なにより、コイツを育てれば怪物が生まれる……そう確信させる何かを男は感じ取っていた。


 全てが終わると、少年は男のことを見上げた。


「コンクールに出る必要がありますか……?」

「……ない。お前は今ここで実力を証明した」


 男はニッと笑い、少年の手を握り、それから彼を立ち上がらせる。


「お前の目的を言え……。どんな目的でもいい……。その目的のために、この俺が全ての力を貸してやる。俺は自分の愛弟子のためであれば何でもやる男だ……!」


 それを聞き、少年は言った。


「復讐……。俺の父親……矢神櫂を殺した男に……俺はピアノで復讐する……」

「神威レイジのことだな? いいだろう! お前を奴に勝てる最強のピアニストに仕立て上げてやる。その代わりに、俺はお前に代償を望む……!」

「代償……?」


 男はギラつく瞳で少年を見据えてこう言った。


「復讐が済むまでの間、お前はこの世に存在しないということにする」


 彼はニィっと笑い、続ける。


「俺は生粋のエンターテイナーでな。何をするにしてもエンターテイメントに仕立て上げなければ気が済まないタチなんだ。何か事を起こすなら、劇的であれば劇的であるほど良いに決まっている! 俺は心の底からそう信じている! ゆえに! お前は復讐を果たすその瞬間まで、この世に存在してはならない! お前の存在はこの俺が徹底的に秘匿する……。いいか? お前はこの世にいないのだ! 一度地獄に落ち、その地獄を経て唐突にこの音楽界に現れ、神威レイジに復讐を果たす! ただ、それだけの存在になるのだ! 最後の戦いは、『激戦』だ! 神威レイジを前にしてお前は一歩も退くことはない。神威レイジも恐らくは退かないだろう。二つの極限が互いに鍔迫り合い、音楽界に新たな革命を巻き起こす! これが盛り上がらないはずがない!」


 男は少年を見下ろして言った。


「お前の目的は復讐だ。その目的は俺が果たさせてやる。だが、その代償にお前は俺のエンターテインメントに付きあうことになる……」

「構わない……。神威レイジを殺せるのなら、復讐が叶うのなら……俺は何だってやる」

「契約は成立だ!」


 そして男は、十年の歳月をかけて、最強にして最凶の復讐鬼を造り上げた。


 矢神礼──。演奏家としての経歴はゼロ。その筋の知り合いは全く存在しておらず、業界全体で見ても、矢神櫂に息子がいたことを知っている者はほとんど存在していない。そして、ごく僅かにいるその知り合いも、男の力によって口を閉ざされ、世間に彼の存在が漏洩することは絶対的に禁じられた。

 彼は復讐のため矢神にあらゆる訓練を積み、今、その目的を果たすためだけにこの大会に矢神をねじ込み、強引に出場させている。


「矢神……見ているぞ……!」


 男はニッと微笑み、画面越しに鬱塞シロと矢神礼の演奏を鑑賞する。


「劇的だ! 初戦は上々! しかし、この程度では俺は満足しない……! もっとだ! もっと劇的に舞ってくれ! この世界そのものを震えさせるほどの……最高のエンターテインメントを俺に見せてくれ!」


 男は抑えきれない様子で、次の矢神の対戦表を見つめる。

 次の対戦相手は、『とっておき』だ。


「矢神礼……! お前の人生の全てを賭けたエンターテインメントを……俺はとても楽しみにしているぞ! フハハハハハハハハハハハッ!!!!」



 †




「開瞳弦示……?」


 シロはバタートーストを囓りながら矢神に問う。


「その人が矢神の師匠なの?」

「そう。何事も本気で楽しむのが大好きな人なんだ」


 矢神はベーコンエッグをナイフで切り分け、それを口に運ぶ。


 試合が終わり、矢神とシロは開瞳の用意していたセーフハウスのうちのひとつに潜り込んだ。セーフハウスと言っても、見た目はごく普通の一軒家に過ぎない。日当たり良好で家具家電類も完備され、地下には完全防音の演奏室付きだ。もちろん、ピアノも用意されている。


 シロは矢神が作ってくれた朝食を食べながら、試合中に見た記憶を思い出す。

 断片的に見えた矢神の記憶……彼の能力は相手の過去を追体験するというものだ。そして、その追体験は相互的に発動する。要するに、矢神が能力を使ってシロの記憶を見れば、シロにも矢神の記憶が見えてしまう……ということらしい。


 試合中に見た記憶が気になって矢神にその話をしてみたのだが、矢神はあまり気にしていない様子で自分の十年間の話を聞かせてくれた。


「なんだか、矢神は全然その人のこと恨んでないみたいに見える……」

「恨んでないよ。僕の場合は自分から望んであの人に関わったわけだから」

「シロだったら、絶対に無理だな……途中で逃げちゃうと思う……」


 シロが見た開瞳の訓練は壮絶だった。矢神は何度も失神していたし、吐いたり悪夢にうなされたり散々な目に遭わされていた。それこそ、シロが研究所で受けていた仕打ちと同等とも思える程に……。矢神は、自ら進んでその地獄へと踏み込んだのだ。


「悪い人じゃないよ。実際、僕が何の実績も無いのにこの大会に出場出来ているのは全部あの人のおかげだ」

「矢神ってすごくドライだよね……。いくら自分からと言っても、私だったら恨んじゃいそう……」

「全く恨んでないわけではないけどね。正直、必要あったのか分からない訓練も多かったよ」

「散弾銃で撃たれた時のこと?」

「崖から落とされた時のこと。あの時は本気で死ぬかと思ったからね……」


 矢神はそう言って食パンを囓る。シロは矢神と話をしていると楽しい。研究所にいた時は話し相手なんていなかったし、ずっと辛くて嫌なことばかりだった。矢神は色々なことを話してくれるし、ご飯も作ってくれるし、ピアノの演奏も上手い。


「大会の日程的に今日は僕たちの出番はないから、一日のんびり出来るはずだよ。とはいっても、セーフハウスからは極力出ないほうがいいとは思うけどね」

「シロは平気だよ! 家の中でお話するのも楽しいし!」

「地下室にはピアノもあるから練習にも困らないしね」


 そう言って矢神はテレビのほうに視線を向けた。

 Bブロックの残りの試合結果によって自分との対戦相手が決まる。しかし、気がかりなことがひとつだけある。


「矢神? どうしたの……?」

「いや……Bブロックで次に僕と当たる可能性がある選手を見ていたんだけど……彼も開瞳門下生のうちの一人なんだ」


 ちょうどテレビに映し出された彼の顔を、シロはまじまじと見つめる。ニュースキャスターが彼の勝敗予想を語っているが、難しい話はシロにはよく分からない。


「なんか、あんまり目立たない感じの人だね」

「ああ、実際開瞳門下生の中ではあまりパッとしない経歴でね……まあ僕が言うのもなんだけど、大会では調子が良くても入賞を狙えるかどうかくらいの実力で、普段はあまり目立たない、パッとしないピアニストって印象なんだけど……」

「それがどうして気になるの……?」

「開瞳門下生だからだよ」

「……確かに」


 言われて見れば確かに気になる。矢神の語り口から考えれば大した相手ではないように思えるが、少なくともこの大会に出場出来る程度には活躍もしているピアニストではある。何か奥の手を隠しているとしてもおかしくはない。


「そういえば次の試合って……」

「ダブルス・ピアニズムだね。試合参加者は皆サポーターを一人用意してる。そのサポーターと組んで一緒に音楽を奏でるというのが、第二回戦、ダブルス・ピアニズムのルールだ」

「シロ、二回戦のこととか何も知らされてなかったんだけど、それって普通の連弾とは何か違うの?」


 シロの問いに矢神は食器を片付けながら答える。


「ダブルス・ピアニズムはあくまでピアニスト同士での対決ではあるけど、サポーターはピアニストである必要がないんだ。ピアノ演奏を引き立てるための伴奏と考えれば分かりやすいかな。この大会はピアニストの総合的な技量が試される大会だからね、自分をより良く魅せるために最適な仲間を見つけ出して、それと一緒に手を組んで良い演奏が出来るかどうかが二回戦の勝敗の要になるんだ」

「じゃあ矢神にもサポーターがいるの?」


 矢神は皿を洗いながら答える。


「昨日シロを裏路地まで送ってくれたシルクハットの優男がいただろ? あれが僕のサポーターだよ」

「ああ、伊藤だっけ? 伊藤は何が出来る人なの?」


 矢神は皿を拭きながら答える。


「伊藤はダンサーだ。ああ見えて界隈ではそれなりに名の知れた実力者なんだよ」

「そうなんだ……なんか普通の人だと思ってた……」


 皿を棚に片付け終わると、矢神はテーブルに戻ってくる。


「アイツも僕と同じように開瞳と契約した口でね、僕と伊藤は幼馴染なんだ。アイツはアイツで自分の目的は果たしたから、今は暇してるらしいし、サポーターを名乗り上げてくれてね。優しくて良い人だよ」

「うん。昨日もシロが逃げるの助けてくれたし!」

「お助けキャラだね」


 矢神が椅子に腰を下ろすと、テレビの画面が切り替わる。どうやら今回の大会に関わる速報が入ったらしい。テレビの中のニュースキャスターが興奮した口調で語る。


『今回の大会についてですが、なんと! 第二回戦のダブルス・ピアニズムに世界的有名歌手である聖域アリアさんが出場する可能性があるらしいです! つい先ほどアリアさんが日本に帰ってきたらしく、どうやら柏木大地選手のサポーターを務めるために帰ってきたとか!』

『凄いですねえ柏木選手は。あの聖域アリアさんをサポーターに付けるなんて、この土壇場でサポーターの交代とは随分大胆といいますか……』

『確実に勝ちに来ていますね! 柏木選手と聖域アリアさんのコンビがどのような試合を魅せてくれるのか今から楽しみです!』

『もう聖域さんが来るとなると、今日の戦いは柏木選手が勝つという前提になっちゃいますもんね』

『勝って貰わないと困りますよ! 日本国内にいてアリアさんの歌唱を生で聴ける機会なんてそうそうありませんから! 柏木選手には頑張ってもらいたいですね! 彼が負けてしまえばアリアさんの出番も潰えてしまうので……』


 ニュースキャスターの興奮気味の語り口を聞き、シロは矢神のほうを見た。


「矢神、聖域アリアって凄い人なの……?」


 矢神は目の前で語られていることが真実かどうか疑わしいと、まるで夢でも見ているかのような驚愕の表情で答えた。


「凄いなんてもんじゃない……。聖域アリア……。奴は、『開瞳門下生』最高傑作の一人だ……」


 開瞳弦示。

 それはかつて矢神櫂と共に世界の音楽界を震撼させた、日本が誇る最凶の音楽兵器。彼はピアノから声楽、トライアングルから指揮者まであらゆる楽器に精通し、全てにおいて世界最高峰の技術と実績を備えた、音楽界の怪物……。歩く人間オーケストラとまで呼ばれる多才ぶりに、彼のもとにはあらゆるジャンルのあらゆる楽器を演奏する才能たちが集結し、彼の指導を受けることでさらなる高みへと登っていく。

 彼の指導を受けた生徒たちは『開瞳門下生』と呼ばれ、現在の音楽界の有名どころはほぼ全て開瞳の手が加えられていると言っても過言では無い。


 そんな開瞳門下生の中でも最高傑作とされるのが、彼女……聖域アリアだ。


「矢神……勝てる?」


 シロは画面が変るまで目を見開いたままでいた矢神に心配した様子で聞いた。


「柏木って人がもし勝ったら……」

「柏木は勝つ。僕の次の対戦相手は彼と聖域アリアだ。なるほど……やってくれるな開瞳弦示……!」


 矢神は手で顔を覆いテーブルに俯く。


「神威レイジと戦うのであれば、聖域アリアを越えてからにしろというわけか……。なるほど、面白い……」


 神威レイジはピアニストで、聖域アリアは歌手である。そもそものジャンルが違う。そう言って片付けてしまえばそれまでの話ではあるが、どちらも世界最高峰の実力者であることに変わりはない。つまり、次の対戦は、神威レイジと同等の相手と戦うということ……。逆に、ここで負ければ所詮その程度……開瞳弦示は恐らくそう矢神に告げているのだ。


「開瞳……これがお前のエンターテインメントか……! であれば、僕は僕の目的復讐のために、お前の試練を乗り越えてみせる。誰にも邪魔はさせない。たとえ敵が『お前』であろうとも……」

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