第4話 『ザッツ・エンターテイメント』
鬱塞の戦慄を矢神の旋律が打ち消していく。
鍵盤上、互いの指の動きはもはや神速。
死神が放ち、魔王が潰す。
「いい加減にしてよ……ッ!!! 私は勝たなきゃいけないの……勝たなきゃ殺される……!!!」
「だったら死ねばいい」
「……ッ!!!!」
鬱塞は矢神の言葉に奥歯を噛み絞める。
コイツは邪悪だ。
コイツも自分のことを痛めつける人間だ。
家族も、研究所の人間も、それ以外もみんな敵意の塊だった。
コイツもその内の一人だ。
だったら……
自分を守るために殺してもいいはずだ。
「殺す……殺す……殺す!!!!」
加速する打鍵と強烈な音圧。
鬱塞は無心になって鍵盤を叩き、ステージの向こうに歯軋りする。
それを見て矢神は笑う。
敵の旋律は以前よりも勢いを増し、それに対応する矢神の打撃にも熱が入る。
「そうだ……その音が君だ。その演奏こそが本物の君だ」
「何が言いたいの……私の演奏が醜い……? そうだよ、私は"死神"だからね……ッ!!!」
圧倒的な威力の砲撃が客席を吹き飛ばし、ステージの壁に風穴が開く。しかし矢神は一向に気にしない。
「人前で弾く本気のピアノはどうだ? 久しぶりの"音楽"だろう? 自分に嘘を吐かない本当の演奏だ。それが本物の君の音色だ」
「うるさい!! 私を本気にさせないで!!! 弾きたくないの!!! 殺したくないの!!!!」
砲撃でダンパーペダルが破壊され表現の幅が狭められる。
しかし一向に構わない。
「嘘を吐くな。君は弾きたいんだ。ピアノを弾くとみんなが褒めてくれただろう? 嬉しい、楽しい、もっと弾きたい……当時の君はそう思っていたはずだ。その時の自分の演奏を思い出せ。鍵盤の前では、譜面台の前では余計なことは考えていなかったはずだ」
「減らず口を……ッ!!!」
譜面台が破壊され楽譜が舞う。
だが、そんなことはどうでもいい。
「感情が乗ってきたな。演奏にリズムが生まれているぞ。楽しんでいる証拠だ」
「楽しんでなんかない!! 私はただ早く終わらせたいだけ!!」
鬱塞のタチャンカに次弾が装填され、絶叫と共に発火。脚柱の一本が消し飛ばされピアノが傾く。
関係無い。
「いい演奏だ。激情を上手く表現している。これだけの表現力とそれを支えるだけの超絶技巧。筆舌に尽くしがたい」
「……あなたが言ってること、さっきから何も分からない!! 私はただ誰も殺したくないだけなの!! 邪魔しないでよ!!!」
「邪魔はしていないさ。分からないなら客席を見てみるといい」
そう言われ客席を見た鬱塞は思わず目を見開いた。
「言っただろう? いい演奏だって」
「嘘……なんで……」
死神はピアノ越しに対戦相手へと目を向ける。
その演奏は正確無比で、どこを切り取っても無駄がない。しかしそれだけじゃない。こちらの演奏を、音を、全て自らの演奏に絡めているのだ。
「連弾……」
違う曲、違うピアノを使っているのに、矢神と鬱塞は一つの曲を奏でていた。矢神が鬱塞の演奏をカバーし、刃を包み砲撃を逸らし、激情はそのまま流れに変えて、彼女の手を取って踊り出す。
客席の伊藤はその二人の演奏に思わず呟いた。
「これはワルツだ……」
怒りを情熱に、悲しみを哀愁に。
音を伝って観客たちの心へと響かせる。
「より強く能力を発揮出来るのなら、その逆も出来るはずだ。僕はその手助けをする」
だから最後まで本気でいこう。
目の前の彼の瞳は信じられないほど真っ直ぐだ。だから、鬱塞は何も言わず、ただ言われるがまま本気の演奏を続けた。既に二曲目のラスサビ。三曲目に選択肢はない。ここからは作戦抜きの純粋なパワー勝負……。
敵だったはずの相手と手を取り合って踊るかのような演奏。だけど、相手が手を取ってくれるから暴走はしない。振り上げた刃は抑えてくれる。炎は消さずに見守ってくれる。
「楽しい……」
鬱塞は無意識にそう呟いていた。
こんな気持ちはいつぶりだろう。
思う存分ピアノを弾いて、鍵盤を叩いて、その音を受け入れてくれる人がいる。
鬱塞シロは、その演奏に思わず笑顔になっていた。
矢神はその顔に口端を上げる。
そうだ、それが演奏なんだ。
それが君の本来の音なんだ。
だから、我慢せずに好きなだけ弾け。
「僕が最後まで連れていくから」
ラスサビを越え、アウトロへと突入する。
死神と魔王のワルツは観客たちの心を完全に魅了している。
互いに相手に求めるものは"極限"――。
一歩間違えただけで全てのバランスが崩れてしまう綱渡り。
本気と本気のぶつかり合い。
曲と曲が殺しあい、削りあい、壊しあって、やがて一つの曲となる。
砲弾が鍵盤の端を吹き飛ばす。
死神の鎌が頬を掠めていく。
それでも止まらない。
加速、加速、加速、そして加速……。
鬱塞シロは矢神のほうを見て笑う。
(ほら! これでも付いて来られる!?)
彼女の笑顔に矢神も笑う。
(まだまだ……!)
応える矢神に鬱塞は喜びさらに加速をかける。
(凄い……凄い!!)
(お前もだ……!!)
神速の攻防。
そして共闘。
二曲目が終わった時、二人は荒い息のまま顔を見合わせていた。
さっきまで天使のようだった彼女は、人間らしく息を切らし、汗を流している。矢神も同じだ。天井を見上げ、清々しさに瞼を閉じた。
足音が聞こえる。
ステージの向こうから、彼女が歩み寄ってくる。
「凄い演奏だった……。あんなに凄いの、私初めて……」
「僕も驚いた。君のこと全然知らなかったから……。凄く強かったよ」
お互いに顔を見合わせ、笑う。
だけど、鬱塞は少し悲しそうに俯き、奥歯を噛んだ。
「楽しい時間はすぐに終わっちゃうね。……見たんだよね? 昔のこと……」
ステージの向こう、黒いスーツの男たちが二人の試合が終わるのを待っている。
「私、もう終わりみたい」
そう呟く彼女に、矢神はピアノを打鍵した。
簡単な和音をひとつ。
驚いた鬱塞は顔を上げ、矢神と顔を合せる。
「同情を誘うのはやめろ。僕は他の人間に同情しても、君にだけは同情しない」
予想外の言葉に鬱塞は目を見開く。 なぜ彼がそんなことを言うのか。自分には何も思い当たることがない。さっきまであんなに一緒に楽しく演奏をしていたのに……。
思わず泣きそうな顔の鬱塞に、矢神は言う。
「『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている』……。僕の能力の特性だ。君も僕の過去を見たはずだ」
それを聞き、彼女は思わず息を飲んだ。
「十年だ――」
父を殺された。
復讐のために生活の全てを棄てた。
復讐の道具を作るために、悪魔のような人間の下でピアノを演奏してきた。
ずっと、誰もいないホールで演奏をしてきた。
「僕は僕を殺してここまで来た」
シロは知っている。
見たはずがないのに、知っているはずがないのに……。
「嘘……そんな……」
だって、それは彼女が見てきた光景と同じだったから……。
「シロと……同じ……」
家族が死んだ。
能力のために悪魔のような人間の下で働かされた。
被験体の仲間は全員殺された。
ずっと、誰もいないホールで演奏をしてきた。
そう、同じなのだ。
それが能動的か受動的かというだけの違いで、本質の部分で目の前の男と自分は、あまりにも似すぎていた。
「僕は君に同情しない。なぜなら僕は君を尊敬しているからだ。あれだけの苦境を越えて、それだけの演奏が出来る君を。そこでひとつ提案がある」
研究所の人間に、復讐をしたくはないか?
魔王の言葉に死神は目を見開く。
「復讐……?」
「そうだ。君を利用した連中に、君を貶めた連中に……一矢報いてやりたいとは思わないか? 今までの怒りと悲しみは決して消えない。だが納得することは出来るはずだ。僕は納得するために復讐に溺れた。十年間、藻掻き続けてきた。だから藻掻くのは得意だ。君が望むのなら藻掻き方を教えてもいい」
シロは俯き、今までの自分の人生を思い出した。
誰もがシロを傷付けた。
誰もがシロを蔑ろにした。
誰もシロを褒めなかった。
誰もシロを人として扱わなかった。
そして自らに問う。
それを、全部許すことが出来るのかと。
「……たぶん、許せない」
その考えが邪悪だとは分かっている。
だけど、今さら心の中の邪悪を消し去ることなんて出来ない。
もうとっくに真っ黒に染まっているのだ。
あの研究所に復讐出来るのなら、してみたいと思った。
「私は藻掻きたい……。だけど、そんなの出来るかどうか分からない……。さっきの演奏だってあなたの力を借りたから上手く出来ただけ……。本当の私はこんなに上手く出来ない……」
「それで構わない。僕は君が欲しい。君の力は僕の復讐にも役立つだろうから」
そう言って矢神はシロに手を差し出した。
「僕は仲間として君が欲しい。掴むかどうかは君が決めろ」
シロはその言葉に涙を流す。
初めて人に求められた。
ただ、その事実が嬉しかった。
「シロで……いいの……?」
「僕は苦難を乗り越えた者の底力を信じている。君のような傷だらけで演奏する奴は初めて見た。むしろ、君"が"欲しい」
「シロ……ずっと泣いてた。ずっと諦めてた……」
「僕にもそんな時期があった。それでも前を向く切っ掛けをくれた人がいた。辛ければ頼ってもいいんだ。最終的に勝てさえすればね」
シロはそれを聞き、涙を拭い矢神と目を合せた。
ここまで言ってくれた人は、求めてくれた人は今までいない。だから信じてみようと思う。しがみついてみようと思う。あとは、シロが勇気を出すだけだ。
「私は弱いけど……あなたが強いって言ってくれたから、それを信じる」
矢神の手を握り、にこりと笑う。
もう弱いシロはやめるんだ。
死神と呼ばれるのが嫌だった。
だけど物好きな人もいるものだ。
どうやら彼は死神が欲しいらしい。
だから、少しだけ続けてみようと思う。
最凶の死神を。
「よろしく!」
「あぁ、よろしく!!」
二人は手を強く握り締め、それからシロは矢神に問う。
「それで……シロはどうすればいい? このままじゃ……」
シロが振り向いた先には黒服の男たちが待ち構えている。
このまま演奏を終えれば施設に連れ戻されてしまうだろう。
「三曲目を弾こう」
矢神のその言葉にシロは息を呑み、頷いた。
「じゃあシロは手を抜いたほうが都合がいいよね? もうこの大会で成績を残す意味はないわけだし……」
「いや、三曲目も本気で弾いて欲しい。君と僕の演奏でこの会場を破壊する。君はそのどさくさに紛れて逃げてくれ」
「でも……」
シロは客席のほうを見て不安そうな表情を見せる。
「大丈夫、破壊するのはステージだけだ。あの男たちを足止めして、君が上手く逃げられるように調整する。ステージを出たら舞台袖で僕の仲間と合流してくれ。安全な場所まで連れていってくれるはずだ」
矢神はそう言うと、客席の伊藤にハンドサインを送る。
伊藤はやれやれと肩を竦め客席を後にした。
「分かった……けどどんな人? 見て分かるかな……」
「黒いシルクハットの優男だ。見ればすぐに分かる」
二人で話していると、審査員から試合継続の意志確認が行われる。
少し長く話しすぎたようだ。
矢神とシロはそれぞれ継続の意思を示し、互いにピアノの前に座る。
これは運命を変える演奏だ。
シロは息を整え、鍵盤に指を添える。
「本気で……」
ピアノの向こう、初めての仲間と視線が合う。
「行くよ」
死神が鎌を構え、
「来い」
打鍵。
刹那、放たれた二つの音が、互いに互いを破壊する。
鬱塞シロ
「イスラメイ」
矢神礼
「ザッツ・エンターテイメント」
二つの旋律が会場内で絡み合い、熾烈な削りあいの果てに観客たちの鼓膜を刺激する。
「なんだこれは……こんな試合は初めて見たぞ……!」
客席から驚きの声が上がる。
そう、その曲は互いを殺しあう。しかしその中には確かな調和がある。
矛盾した二つの要素が曲と曲を複雑に織り交ぜ、会場内に独自の世界観を築き上げる。
「あの二人、この数分間で完全に同調した……。しかも互いの個性を尊重したままに……」
客席のミライは思わず口端を上げる。
「やっぱり矢神櫂の子だね。それに鬱塞ちゃん……。世界は広いなぁ。ライバルがどんどん増えちゃうよ」
ミライは客席を立ち、そのまま会場の出口へと向かう。
この音を今聴くのは勿体ない。どうせ聴くのなら、こんな観客席からではなく、ステージ上で、敵として……。
「そういえば敗者復活戦ってあったよなぁ……」
会場の熱気、観客席の歓声、ステージへと注がれる視線。それは会場を後にするトップアイドルを誰にも気付かせないほどの灼熱だった。
矢神はピアノ越しに鬱塞シロへと視線を移す。天使の姿をした死神は、楽しそうに、そして勢いよく鍵盤を掻き鳴らす。強烈な音圧、圧倒的な旋律。その両者が熱波となってピアノを焦がす。低音の鍵盤が溶け、高音の弦が切れる。楽曲を奏でるのに最低限の鍵盤のみで死神と対峙する。
シロはこちらのピアノが限界なことに気付いていない。
曲を奏でるのに夢中で、それ以外が全く見えていないのだ。
(そうだ……それでいい……)
音を楽しめ。
自由を謳歌しろ。
誰も気にすることなく、
天使のように好きに舞え。
矢神は笑みを浮かべ、限界まで壊れたピアノでイスラメイに立ち向かう。
イスラメイ
それはピアノ最難曲のうちのひとつ。
作曲者であるミリイ・バラキレフは遅筆で有名であり、一曲の作成に数年から数十年を要していた。しかしこのイスラメイはそんな彼の例外であった。
一ヶ月という異例の短時間による作曲。それは彼が異文化に触れることによって為し得た、一度きりの例外。
自らの外にあるものによる影響力は馬鹿に出来ない。
鬱塞シロ……彼女の演奏もこの大会を経て大きく変わった。
(楽しいと伝わってくる)
感情が増えたことによる表現力の進化。
どこまでも広がる草原のようなイスラメイ。
それは天国の景色。
鬱塞シロはまだまだ強くなる。
矢神はそれを確信し、ラスサビで自らの楽曲を叩きつけた。
音と音が反響し、強いうねりとなって会場を揺らす。
照明機材が落下しガラス片が飛び散る。ステージの骨組みが崩れ轟音を立てながら柱が折れる。電気系統の千切れた配線からスパークが爆ぜ、闇に溶けたステージが薄暗く点滅している。
矢神は構わず演奏を続ける。
すぐ横を少女が駆けていく。
暗闇から、本当の自由を目指して。
「行け……ステージは僕に任せて」
舞台袖から現れた黒服の男たち。混乱した様子の彼らに音圧をぶつけてやる。
限界を迎えたピアノは次々と弦が切れ打鍵が利かなくなっていく。
だけど構わない。
「自由を掴め」
人生は全て、舞台と同じだ。
そこは笑顔と涙であふれている。
何もかもがあるところだ。
死神も魔王も復讐も、すべてを含めて――
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