第3話 『鬱塞シロ』
鍵盤に初めて触れた時のこと、今でも覚えてる――。
真っ白な道路、裸足で歩く私、往来する車の群れ。
信号待ちの子供がお父さんとお母さんと、楽しそうに話してる。
手に持っている箱は、たぶんクリスマスプレゼント。
それを見て嫉妬した。
何の苦労も知らない、たっぷりの愛を受け取った、真っ直ぐな無垢な笑顔に。
羨ましいと思った自分が憎かった。
クリスマスプレゼント
「いらない」
人との関わり
「いらない」
無垢な笑顔
「いらない」
誰かの愛
「いらない」
嫉妬する、自分
「いらない」
昔、それは私にもまだ家族がいた頃の話だ。
私の家系は音楽とは無関係だった。
ショッピングモールに買い物に行ったとき、偶然家電量販店の電子ピアノが目に映った。
それは紙幣一枚で買えるほどの安物だったけれど……当時の私には、何故かとても"ぴかぴか"に見えた。
「お嬢ちゃん、弾いてみるかい?」
量販店の店員に連れられ、椅子に腰を掛ける。目の前には白い鍵盤、そして一枚の楽譜。音楽のことなんて何も知らない子供だった。
だけど――
「え、えぇえお嬢ちゃん!?!?!?」
楽譜なんて読めない。今弾いている楽器の名前すら知らない。楽曲も、意識して聴いたことなんてほとんどなかった。だけど、鍵盤が教えてくれたんだ。
「ここだよ!」
「ここを押すと綺麗だよ!」
「次はこっち!」
そんなふうに呼ばれた気がして……。
「凄い……凄いよお嬢ちゃん!! 有名な音楽家の子供……とかじゃないよな……。君、名前は?」
「ぁ、ええと……」
困って辺りを見回すと、口を押さえ驚いた様子のお母さんがいた。
「い、行くわよ……シロ……」
お母さんに手を引かれ、そのまま家に帰った。お母さんは家族みんなに今日あったことを知らせて、私を演奏家にさせようと話しあった。
私はそれを聞いてワクワクした。
ドキドキした。
それが、これから始まる地獄の幕開けだとも知らずに……。
†
演奏はすぐに上達した。沢山弾いて、弾いたぶんだけみんなも喜んでくれて、コンクールも全戦全勝だった。
「偉いぞ~シロ~!! 鳶が鷹を生むとはまさにこのことだ!!」
「お父さん、それシロへの褒め言葉としては少しちがくない?」
「まさかこの子が音楽の才能を持ってただなんてねぇ」
コンクールで最優秀賞を取るたび、みんな褒めてくれた。それが嬉しくて、練習はいくらでも出来た。とくに褒めてくれたのはおばあちゃん。
「シロは鬱塞家の誇りだよ! 死んだおじいちゃんもさぞかし鼻が高いだろうねえ」
沢山褒めてくれて、凄く嬉しかった。
もっと、褒めて!
もっと頭を撫でて!
沢山沢山、優しくして!!
「
冬の寒い夜、私はそんな言葉と共に、知らない町の路地裏に棄てられた。
それが、私の物語の本当のはじまり。
†
私には才能があると信じていた。弾けば弾くだけ上手くなった。楽譜に書いてある指示の先に、その曲の本当の弾き方が見える気がした。
鍵盤が導いてくれる。
ペダルが呼んでくれる。
音が音を呼んでくる。
私はその流れに身を任せるだけ。
「死神」
私のおばあちゃんが死んだのは、私が家でピアノを弾いている時のことだった。
最初は偶然だと思っていた。だって、家にいる間はずっと弾いていたから。
でも、偶然じゃないのかもしれないと思った。
「死神……」
葬儀から暫くの間はピアノは弾いていなかった。そんな気分じゃなかったから。
それで、一週間くらいして久しぶりにピアノを弾いた。悲しい気持ちを乗せて、鍵盤の呼ぶ声のままに……。
「死神…………」
そうしたら、お父さんが死んだ。
お母さんとお姉ちゃんは、私のことを陰で何か言っていた。でも、その時の私は馬鹿だったから、また弾いてしまった。
鍵盤の声につられて……。
「死神!!!」
姉が死に、母は狂った。
狂って、私をあの時の家電量販店に引きずってきた。お母さんはお化粧もしないまま、ボサボサの髪で、凄い顔で私を電子ピアノの前に座らせて、ただ一言「弾け」と言った。
私は嫌だと言った。だって、弾いたら誰かが死ぬかもしれないから。
お母さんは私の髪を掴んで、電子ピアノに叩きつけた。頭から沢山血が出た。
店員が止めに来たけど、お母さんはそれでも「弾け!」「弾け!」と叫んでいた。
それで、私はなんでそんなことをしたんだろう……。
鍵盤の声が呼びかける。
「こっちだよ!」
「次はこっちの鍵盤がいいよ!」
「凄い凄い……!!」
ああ、これ、私にしか見えてないんだよね……?
だとしたら、この子たちは何が目的なの……?
綺麗な曲だった。
人が死んだ。
ひとり、ひとり、またひとり。
私が奏でるたびに、綺麗な旋律を紡ぐたびに、死んでいく。
「いいよ!」
ひとり。
「そのままそのまま!」
ひとり。
「シロちゃん上手い!!」
またひとり……。
気付いた時、周囲にはお母さん以外、誰もいなかった。
「化け物……」
お母さんはそう言って、とても怖い顔で私の腕を掴んで、ショッピングモールを後にした。
駐車場で無理矢理車に乗せられて、知らない道をどんどん進んだ。私は怖かったけど、何も出来ずに座っていることしか出来なかった。やがて着いた町の路地裏で、私はお母さんに棄てられた。
「あなたさえいなければ……ッ!!!」
ああ、そうか……
「この『死神』が……ッ!!!」
私、演奏しちゃいけない子だったんだ。
†
何も知らない子供が一人で、冬の町で、着の身着のまま生活するのはとても大変だった。
ゴミ捨て場から段ボールを拾ってきて、それにくるまって暖を取る。夜は寒くて、とてもじゃないけど眠れない。昼間に少しだけ昼寝をして、夜はひたすら朝がくるまで耐え続ける。食べられそうなものは何でも食べた。
ある日いつものようにゴミ捨て場を漁っていると、一枚の毛布のようなものを見つけた。
暖を取るために使えると思い取り出したそれは、ロールアップの折りたたみ式の電子ピアノだった。
「……っ!」
白い鍵盤が見えた瞬間手を離した。
怖かった。
でも……少しだけ、弾きたかった。
だって、私にはピアノしか出来ることはないから……。
周囲に誰もいないのを確認すると、ロールアップを地面に広げた。幸いなことに電池はまだ残っていた。壊れた音色だったけど、弾いていると少し心が和らいだ。
「こっちだよ!」
「ほら、こっち弾いて!」
「うんうん、上手い上手い!!」
ありがとう、私を褒めてくれるのはあなたたちだけだね。
無心になって弾いていた。
時間を忘れて、心の趣くままに、自由に、そして楽しく……!
そして、肩に手を置かれて初めて外界のことを思い出した。
「お嬢ちゃん……ピアノ上手いね」
知らない男だった。
白衣を着た眼鏡の、長身痩躯の外人だ。
「良かったらうちに来ないかな? 食べ物も温かいお風呂も用意するよ?」
男の背後に、いくつかの死体が転がっている。
怖いと思った。
だけど、その死体に外傷は無さそうだった。
たぶん私が作った死体だ。
男は手を差し出してきてこう言った。
「君の力は役に立つ。そう、君の『死神』の力がね……」
私はその時、精神的にも身体的にも限界だった。
たぶん、その晩彼の手を取らずに夜を迎えていたら、そのまま凍死していたと思う。
私はそれから海を渡り、海外のとある研究施設に監禁された。
実験体として……モルモットとして……。
「さあ鬱塞シロ……。演奏のお時間ですよ……」
扉が開き、男が入ってくる。
鞭を鳴らしながら、楽しそうに、首輪を嵌められた私を見下ろして。
†
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!!!!!!!!
痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!!!!!
「シロ!! なぜここでミスをするのですか!!! これはあなたの『能力』の実験なのですよッ!!!」
背中を鞭で叩かれ、焼け付くような痛みが神経を刺激する。
「痛い……! それやめて……!!」
「そうですか……それでは"ビリビリ"にしますか。それとも、"熱いの"がいいですか?」
男は焼きごての用意を始める。
私は泣きながら懇願する。
「ちゃんと演奏します!! 演奏するから……"ビリビリ"も"熱いの"もやめてください……っ」
「それでは私の指示に従ってください。条件を揃えなければ実験の意味がないですからね……」
あれからどれくらいの時間、そこにいたのか分からない。
だけど、ひとつだけはっきりしていることがある。
「私、地獄におちたんだ」
その日の実験が終わると、私は部屋へと戻ってくる。
真っ白で何もない部屋。
机や椅子やベッドすらなく、出入り口は正面の扉だけ。
窓と呼べるものはひとつもなく、強いて言えば扉に付いている覗き窓だけ。
そう、私はすべての人権を剥奪された。
だって私は人じゃないから。
人を殺す死神だから。
覗き窓が開き、誰かがこちらを眺めている。
今の私は観察対象だ。
眠っている時も、起きているときも、ずっと、ああやって誰かに見られている。
毎日、毎日……
誰もいない防音室で感情を制御しながら演奏をさせられる。
「悲しい感情、レベル3でお願いします」
「怒り、レベル1で」
「喜び……は出来ないんでしたね、失礼失礼。では怒りの5で」
出来なければ何度でもやらされた。
鞭で叩かれ、熱した鉄の棒で焼かれ、電気を流され、刃物で切られ、釘を刺され……。それで、一体なんのデータが得られているのか。何の役に立っているのか。
それすらも分からなかった。
のぞき穴からニヤニヤとした目がこちらを見ている。
だけど、気付かないフリをして天井を眺める。
こわいから。
まっしろな天井を見て、一日が終わる。
「大会に出ましょう。実戦で最大何人殺せるか試すんですよ」
「え……?」
「なんですか? 大会ですよ。近々日本で世界規模のピアノコンクールが開かれるんです。そこであなたの能力がどれくらいの出力を出せるのか試すんです」
「そんな……」
沢山の人を殺すなんて嫌だ。そんな私の死神らしくない考えを読み取ったのか、男は焼きごてをこちらに見せ、こう言った。
「今回は"この程度"では済みませんよ。爪を全て剥ぎましょう。歯を全部抜きましょう。全身の皮を剥ぎましょう。眼球をくりぬきましょう。四肢を全て切除しましょう。生きたまま内臓を取り出しましょう。……こちらにもそれくらいの覚悟があるんですよ。出来ますよね、シロ?」
男の言葉に私は怯えて、震えながら頷くことしか出来なかった。だってこの男は本当にそれくらい出来る人間なのだ。同じ研究所で、本当にそれをやられている人を見たことがあったから……。
「やります……。やらせてください……」
そう言うしかなかった。
だけどそれを先延ばしにすることくらいは出来る。
最終的には殺さなくちゃいけない。
だけど、みんな一秒でも長く生きていられたほうがいいに決まってる。
ここでは本気を出さず、あくまで最終決戦までの時間を稼ぐ。
(そのほうが観客も多いから。あの男に言い訳が出来る……)
そのはずだったのに……ッッッ!!!!
「あなたがシロを本気にさせるからッ!!!! 簡単に勝たせてくれれば誰も死ななくていいのにッ!!!!!」
全部台無しだ。
結局全部、何もかも上手くいかない。
死神は死神。
だから、もういいや……。
「死んじゃえ、みんな……」
これで、全部終わり。
「
この物語は現在へと繋がっている。
「君の音色、過去の旋律……とくと聴き取った!」
鬱塞シロが死神なら矢神礼は魔王だ。人心に溶け込み、その音色を自らのものとする魔物……すなわち、彼女同様怪物だ。
「一度舞台に上がったのなら君は既にエンターテイナーだ。胸を張って人を殺せ」
「来い、死神……」
君のことは理解した。
その上で――。
「勝負――!!」
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