第5話 指輪と約束
この世界において、指輪は特別な意味を持つ。
勇者が聖女に仲間の証として捧げた物。
それが指輪だからだ。
今では婚約だけでなく、親愛や友愛の証として、老若男女問わず贈り物とされる。
五年前、俺は父から指輪をもらった。
学区から卒業した時のことだった。
「レンジ、お前にこれをやろう」
「お父ちゃん、これ何……?」
まだ小さくて無知だった俺は、金色に光るその指輪を手に首を傾げた。
「俺からの贈り物だ。大切にしなさい」
今思えば、それはただの飾りではなかった。
嵌めれば気が満ち溢れ、体力が腹の底から湧き上がってくる。
何重もの祝福が込められたその指輪は、きっと人が一生働いても得ることのできないほどの価値があった。
でも、その時の俺はそんなことどうでも良かった。
「お父ちゃん! ありがと! これ、すごくキレイ!」
飛んではしゃいで、目を輝かせた。
「この指輪はお前が家族の一員である証拠だ。まだお前には見合わないが、いつか強くなって一人前になった時、それを付けて人の前に立ちなさい」
「うん! 分かった!」
ずっと前に交わした約束。
それを俺はまだ鮮明に覚えている。
父さんはどうだろう。
多分、そんなこともう忘れたと思う。
「——レンジ様、いかがなさいました?」
ハッとして我に返る。
「ごめん、考え事してた」
使用人に答えて、俺は皿洗いを再開した。
武闘会が明日に近づいた。
俺は相変わらず絶不調。いくら薪割りの訓練をしても、強くなった気がしない。
きっと明日もボコボコのけちょんけちょんにされるのだと思うと、憂鬱で仕方がなかった。
家事の雑用が終わって廊下に出ると、話し声が聞こえてきた。
「ライガー様の荷物は整ったか?」
「はい、今から最終確認に入るところです。今日中には全てまとめて、王都行きの列車に積めるかと」
「……ライガー様は明日、武闘会に参加した後王都に向かわれる。お手を煩わせることのないように、しっかりと運び込むのだ」
そういえば、兄さんは師匠が決まって王都へ行くことになったらしい。
何でも、騎士団の隊長、ユリウス何ちゃらのところで修行するのだとか。
これで暫く奴の顔を見ずに済むと考えるとせいせいする。
部屋に戻り、椅子に深く腰掛ける。
途端に疲労感に襲われて目を瞑った時、俺は思った。
——違う。
そう、違うのだ。
上半身を起こして、部屋全体を見回す。
自分を取り巻く環境の一つ一つが、ほんのわずかにだが違う。
まるで、自分以外の誰かが無造作に入り込んで、何か手を加えて行ったかのような感覚だ。
基本的に、俺の部屋に使用人が来ることはない。
父さんが俺を世話するなと使用人に命じているからだ。
つまり、俺の部屋を管理しているのは俺一人のみ。
違和感を覚えるのはあり得ない。
なんだか悔しくなって、俺は立ち上がった。
絶対にこの違和感の正体を解明するまで、俺は引き下がらないと決心して。
本棚をじっくりと観察する。
——何も変わっていない。
並び順も、傾き具合も。
どうやら違和感の震源地はここではないようだ。
続け様にベッドに目を向ける。
こちらも同様だ。
何も異常はない。
布の皺も枕の位置も今朝から動いていない。
いや、思考の開始地点が間違っているのかもしれない。
目を閉じて、考えを巡らせる。
俺はどの時点で、何故違和感を覚えたのか。
——椅子だ。
デスクの手前にある椅子。
それを手前に引こうとした時だ。
俺はいつも、必ず部屋を出る時は椅子を机側に寄せるようにしている。
でも、さっきは拳二個分ほどの隙間が机との間にあった。
だから、何かが違うと確信したのだ。
机の収納に手をかける。
もし、決定的な違いがあるとしたら、この中。
手前に引くと、その中には手のひらほどの小箱が一個。
中には、あの時貰った指輪が入っている。
嫌な予感がした。
箱を手にとる。
妙に伝わってくる軽さが、その予感の正しさを示しているかのようだった。
蓋を開けた。
俺は、絶句した。
目を瞬かせて、何度もそれが見間違いではないかと疑った。
でも、そうじゃなかった。
箱の中身は、空っぽだった。
「——レンジ、夕食の時間だ」
「っ!?」
肩をビクッと震わせて振り返る。
「ど、どうしたの、父さん」
「……夕食の時間だと言っている」
俺はことさら動揺して、声を震わせた。
「珍しいね、父さんが直接呼びに来るなんて……」
父は答えない。
ただ口を真横に結んでいるだけ。
いつものことなのに、今日は特別不気味に見えた。
「……ねえ、俺の指輪知らない? 昔、父さんがくれたやつ」
父は暫く黙って徐に口を開いた。
「知らんな。お前の管理不足じゃないのか」
聞くだけ、無駄だった。
父はそれだけ言い残して、部屋を去った。
=====
それから暫く、俺の頭の中はぐるぐると思考で埋め尽くされた。
多分、鏡を見れば相当険しい顔が映るに違いない。
とにかく、疑問の中心は
使用人か、無関係の泥棒か、それとも本当に自分の管理不足か、あるいは——
考えたくない結論に、頭を振る。
「ライガーよ、いよいよ明後日が出立の日だな」
ドアの向こうから話し声が聞こえてくる。
なかなかどうして入りずらい雰囲気だ。
「——ところで、お前にプレゼントを用意したんだ」
俺は聞き耳を立てて、眉を寄せた。
「本当ですか、お父様!」
「もちろんだ。お前の荷物の緑色の箱だ。その中の、左から三段目の仕切りに入れている。王都に行った後、確認するといい」
どうやら、兄さんは相当気を良くしたらしい。
その話の後からは、仕切りに「ありがとう、ありがとう」と感謝の言葉を連呼している。
しかし俺は気が気で無くなっていた。
「——レンジ様、入らないのですか? 夕食が冷めてしまいます」
扉の前に張り付いていると、使用人のレミが話しかけてきた。
「ご、ごめん、ちょっと腹を下したみたいなんだ。夕飯は後にしてくれ」
俺は誤魔化すように言い残して、そこから離れた。
兄さんの荷物が積まれた部屋。
屋敷の一階。厨房の隣だ。
大きいものから小さいものまで、大量の荷物が積み上げられている。
俺は唾を飲み込んで、それに手をかけた。
——緑色の箱。
どこにある。
端から端まで、くまなく目を凝らす。
いつか一人前と認められたら。
そう約束して、今まで一度も身につけることのなかったあの指輪。
それでも、間違いなく、俺にとって大切な物だった。
「——これだ」
見つけた。
緑色の貨物入れ。
施錠はかかっていない。
おかげで簡単に開けられた。
「これの左から三段目……」
そこには小綺麗な小箱が、不自然に挟み込んであった。
無造作にリボンを解いて、俺は中身を暴いた。
「あった……」
指輪だった。
金色の装飾が、家紋に沿って掘られている。
間違いなく、あの時俺が貰った物だった。
安堵と同時に感じたのは、落胆だった。
どうやら、父は俺が一人前になることはないと踏んだらしい。
その時、外側から足音が聞こえてきた。
「——最終確認はしてある。あとは施錠して運び出すだけだ」
「よし、列車の出発まで余裕があるな。今のうちに全部運び切ろう」
マズい……!
俺は慌てて隠れる場所を探した。
やがて視線を動かしていくと、一際大きなトランクが目に留まった。
——この中に隠れよう。
蓋を開け、中に体を押し込む。
幸い内部はいくらか余裕があって、難なく入り込めた。
内側から耳を立てて、外の様子を伺う。
どうやら足音があちこちに動いて、荷物を運び出しているようだ。
暫く息を潜めて待っていると、足音が遠ざかっていった。
やり過ごせたようだ。
俺はふうと息を吐いた。
一時はどうなるかと思ったが、盗人になるのは免れたと見ていいだろう。
「さて、さっさとここから出るか」
腕を突き上げて、内側から蓋を押し上げる。
カチッと音が鳴った。
「ん?」
再び力を入れて押してみる。
——押せない。
たらりと、冷や汗が肌を伝った。
今度はもっと力を込めて、半ば叩くようにして蓋をこじ開けようと試みる。
「……だめだ、開かない」
知らずのうちに、施錠されていたのだ。
顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
「どうしよう、これ……」
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