第3話 許嫁
かつて、始まりの勇者レクス・ベリオスはその仲間と共に魔王の始祖を討ち滅ぼした。
魔王の勢力により貧困を強いられていた民たちは、その勇姿を讃え歓喜し、魔王殺しの偉業は瞬く間に世界に伝播した。
国王はレクスの清純な人となりと、誇り高き志を表し彼に貴族の座を与えた。
以来、勇者の一族は高潔な貴族の血筋に結ばれる決まりとなっている。
レンジの許嫁、エリス・クレメールもまたその一人であった。
「レンジ、また訓練怠けてる……」
人気のない訓練場に足を踏み入れ、彼女は呟く。
金髪を背中まで伸ばし、美しい紅色の瞳を持つ可憐な少女は後ろを振り向く。
「エーテル。私はレンジの相手をしてくるから、奥様に挨拶をしておいて」
「かしこまりました。お嬢様」
執事の男は恭しく胸に手を当てると、馬車を馬小屋に停めた。
エリスは知っている。
こういう時、あの少年がどこにいて何をしているか。
屋敷の一階。
扉を入ってすぐ右側に進むと、厨房の戸が中途半端に開いている。
「ほら、いた」
チラリと隙間から中を覗き込んでみる。
「——なるほど、外部から新たな要素を付け加えられるのは盲点だった……」
「何やってるの? あいつ……」
レンジはブツクサと独り言を呟きながら手元を動かす。
テーブルには調味料という調味料が置かれていた。
「塩を付け足せばよりまろやかに。酸味を付け足せばより鋭い味わいになる。なら、ここにフルーツの果汁を加えてみると……」
エリスは眉を顰めた。
ゴールデンスライムの蜜の入った瓶が見えたところで、大方は何をしているのか分かった。
しかし、今日はそれに色々施工を加えているようだ。
一体誰に入れ知恵されたのか。
上流階級の人間が食するにはあまりにもゲテモノ的なそれに、彼女は呆れのため息を吐いた。
「これは……なんて言えばいいんだろう。要素を付け足しすぎたせいで、味と味が口の中で喧嘩し合ってる……」
「レンジ……」
「それなら、素材同士を中和させる何かを作り出せば……!」
「レンジ!」
「うわぁ!?」
椅子から転げ落ちる。
レンジは見上げるようにしてエリスを視界に入れた。
「え、エリス……!? どうしてここに!」
どうやら茶会の日程も忘れていたらしい。
「あなた、これは何?」
机の上に視線を向ける。
「これは、違うんだ!」
「何が、違うの?」
言い訳の続きを紡ぎ出そうとして、レンジは鬼の形相に口元をひるまされる。
「これは、爺さんが……」
「爺さん? ついに頭がおかしくなって幻覚でも見始めたのかしら」
エリスは叱りつけようとして頭を振った。
無駄だ。こいつにはもう何を言っても通用しない。
——これだから、いつまで経っても身内から馬鹿にされるのだ。
自分がちゃんと導いてあげないと。
「行くわよ」
「い、行くってどこに……?」
答えが返ってくるよりも先に、レンジは首根っこを掴まれて厨房から追い出された。
=====
「……なあ、エリスさんや。今日は茶会の予定のはずでしたよね」
「ええ、そうね」
俺は手をこまねかせながら尋ねる。
「これは、茶会には見えないのですが……」
「そうね。私にも見えないわ」
よかった。
どうやら俺は言語能力を失ったわけではないらしい。
では、一体この状況をどう説明するというのだろう。
訓練場の片隅。
薪に手を添えながら思う。
「茶会とは元来、誇り高き責務を果たす者が、互いを労うために行うものよ。逆説的に考えれば、努力をしていないものがそんなことをするのは貴族の理念に反するわ」
高階級者の間ですでに婚約が決まっているものたちは、定期的に茶会を通して仲を深める決まりとなっている。
ちなみに、俺はエリスと結ばれる決まりになってから五年間、一度も茶器に手を触れていない。
触れているものといえば、しけた木材くらいなものだ。
なんて哀れなんだろう。
「俺だって、努力してるのに……」
「それは結果を出してから言いなさい」
何も言い返せない。
「でも、薪割りばっかはもう飽きたよぅ」
なんて強情な。
エリスは肩を落とした。
「はあ、仕方ないわね。私が模擬戦の相手をしてあげる」
「やっぱり薪割りで——」
「何? せっかく提案してあげたのに断るの?」
顔を近づけ、視線を合わせる。
それだけでレンジは怯んだ。
「あなた、今度武闘会に参加するでしょう? もう全戦全敗なんて言わせないためにも、実戦の訓練は必要よ」
耳の痛い話かもしれない。
だけど、これは必要な努力。
勇者の一族として。
そして、婚約者として。
彼には強くなってもらわなければならないのだ。
=====
腕を引っ張って立たせ、脇に置いてあった木剣を構える。
「範囲はお互いの三歩後ろまで。そこから出るか、一本取るかしたら勝利よ」
本来はもう少し範囲が広いが、擬似的な決闘だ。こだわる必要はない。
レンジは木剣をフラフラと持ち上げながら柄を握りしめた。
「お、お手柔らかに……」
「——行くよ」
軽く足を踏み出す。
剣士にとって攻防の要は間合い。
まずはそこから戦いを作り上げていく。
右足、左足と交互にステップを踏み、エリスは距離を一瞬にしてつめた。
バチン。
剣が弾けた。
「レンジ、剣は間合いって何度言ったらわかるの? ちゃんとステップを踏んで」
「でも、そんなこと言われたって——」
「でもじゃない……!」
続け様に身を翻す。
——次に、刀身の扱い。
無駄なく力を敵に伝え、あるいはいなす。
腕から放たれる技術は、間合いの不利をも押し返す。
——しかし。
腰の捻りを生かし、全身の力を込めたエリスの剣戟が、容赦無くレンジの肩を穿った。
「グエッ!?」
当然、貧弱なレンジの体躯では、満足に剣で防御することもできない。
この時点で、すでに二回。
三本先取なら、もう敗北の確定だ。
それでも、エリスは攻撃の手をやめなかった。
まだ、一つだけ重要なことが残っていたから。
空気が蠢く。
宙がゆらゆら揺れる。
「え、エリス……? 一体、何を……」
剣士にとって、最重要となるピース。
それは——闘気。
体内から送られた闘気が、刀身に余すことなく巡る。
レンジの頭に、嫌な予感がよぎった。
そう、死の一文字だ。
振り上げられた剣。
完璧な間合い、完璧な技術、そして完全な闘気。
それら全てを合わせた一撃が、振り下ろされた。
「——あ、終わっ」
爆破。
粉塵が辺りを舞って散らばった。
=====
「体は貧弱、技術も下の下。だけど、一番の問題は闘気の精度ね」
吹き飛ばされ、埃を被ったレンジに語りかける。
「こ、殺す気かよ……」
「これでも十分手加減した方よ。でも、もしさっき少しでも闘気を出すのが遅れてたら、骨の一、二本折れてたかもね」
レンジはゾッとした表情で背筋を凍らせた。
「あれでも、全力で防御したつもりだったんだけど……」
「あれが全力? 有り得ていい話じゃないわね」
そんなこと言われたって。
と、顔を背けて不貞腐れる。
エリスは柳眉を下げて、膝をついた。
「ほら、立って」
「いいよ。放っておいてくれ」
レンジは差し伸べられた手を払って、自力で立ち上がった。
エリスはしばらく払われた手を見つめて、それから視線をレンジに戻した。
「ねえ、武闘会、本当に来るよね?」
「は? 別に、行くけど」
「私、レンジのこと見に行くから」
そう言うと、レンジはあからさまに怪訝な顔になった。
「やめてくれよ、そんなところまで監視する必要ないだろ」
俺が不甲斐ないのはわかるけどさ。
そんなことを言いながら涙目で呻く。
「違うし。監視のためじゃないし」
「はあ? じゃあ尚更なんのためだよ? クレメール家のエリート様が、俺の試合を見たところで何の参考にもならないだろ」
意味がわからない、とでも言いそうな顔でレンジは吠えた。
エリスはムッとなって目を背けた。
「聞かなくていいから。あなたが理解する必要な無いの」
「何だよ、訳がわからねえ」
そうぼやきつつも、レンジは追求をやめた。
「俺、もう家事の時間だし、家に戻るよ」
背を向けて、トボトボとボロボロになった足を引きずる。
——レンジ・ベリオスは、最弱である。
区域ごとに行われる武闘会でも、全戦全敗。
民衆の前に恥を晒し続けている。
それでも、彼が決闘に現れなかった日は、一度もない。
挫けもせず、諦めもせず、何度も蔑まれに戦いの舞台へと踏み込む。
五年の間、エリスなそんなレンジの姿をずっと見てきた。
「ねえ、待ってるから!」
背中に向かって、声を飛ばす。
「ああ、いつもの大樹の下で待っててくれ」
彼は振り返りもせず、右手をあげた。
再び、誰も居なくなったところでエリスはつぶやいた。
「ずっと、待ってるから……」
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