第4話 祟り廃坑の事件簿②

 それは暗闇越しに見ると、普通の人間だった。だが顔や手先に見られる細部のパーツが微妙に本来の位置からずれており、それが強烈な違和感となって生理的嫌悪をもたらしてくる。服は着ておらず、本来服によって隠れている部分の構造は一切再現されずに、つるつるとした皮膚に置き換わっていた。


「あれは〈エンティティ〉。深層チャネルに巣食う、人間よりも上位の霊的存在さ」

「うわぁ……!」

「今目の前にいるのは〈テクスチャ〉という識別名で呼ばれるエンティティだ。先ずは動かずに、落ち着いて動きを観察してごらん」

「お、おち……落ち着いて……!」


 啓介は呼吸に意識を集中し、吐きそうな程に高鳴る心臓を押さえようと努めた。テクスチャとの間には、まだ充分な距離がある。加えて敵の移動速度も極めて緩慢で、足を引き摺るようにして歩いていた。此方には気付いていないのか、九郎達には見向きもせずに直進を続けている。


「……私達が見えてないんでしょうか」

「テクスチャに付いている感覚器官は、全て形だけの張りぼてなのだよ。どれだけ大きな音を出そうが近付こうが、絶対にボク達に気付く事はない」

「よかった……じゃあ、そんなに危ないものではなさそうですね」

「……ただし、触覚だけは別だ」


 九郎はコートのポケットからコーラの缶を取り出すと、テクスチャに向かって放り投げる。見事に頭部へ命中すると同時に、愚鈍なエンティティは恐るべき速度で上半身ごと腕を振るって缶を真っ二つに切り裂いた。中の液体が身体に掛かると、それにも過敏に反応して狂ったように暴れ続けている。


「テクスチャの特徴は、〈物理的接触に対して極めて迅速かつ正確に、破壊的な反応を示す〉事でね。下級のエンティティは知能が低く、基本的に既定の行動や反応を繰り返すようにできている。その行動パターンを観察によって把握できれば、深層チャネルでの死亡率はぐっと低下するよ」


 テクスチャはしばらく腕を振り回していたが、そのうちに風船の如く破裂して消滅する。


「テクスチャは表皮に一定以上の刺激を約十秒間与え続けると、今みたいに消滅する。生身で行うのはあまりに至難だけどね」


 だから九郎は炭酸飲料を浴びせ、破壊できない物質で表皮に刺激を与えたのだ。


「テクスチャを反応させるだけの刺激を与えるにはただの液体でも不十分で、ヤンキのプライベートブランドコーラ以上の炭酸含有量が必要なのだよ。店から幾らでも支給してもらえるから、啓介くんも携帯しておくといい」


 啓介は先ずコーラ缶を投擲して正確に敵へとぶつける方が難しいと思ったが、余計な事は言わないでおいた。


「そしてもう一つアドバイス。エンティティとは、なるべく戦わない事だ。今は研修の為に倒し方を教えたけど、奴らは〈無限に湧いてくる〉。幾ら倒した所で物資の無駄遣いだよ。倒すのは、致命的な危機を乗り切る時だけだと憶えておきたまえ」


 暗闇の中からは、第二第三のテクスチャ達が続々と湧いて出てくる。


「既知のエンティティに対しては、ボク達がある程度の回避方法を確立している。テクスチャはこちらから干渉しなければゆっくりと前進するだけだから、このまま無視して進むよ」


 二人はテクスチャの間を通って出口を目指す。しばらくの間そうしていると、ズボンのポケットに入れていた九郎のスマートフォンにぴこんと通知が入った。彼女は周囲を目視で警戒すると、端末を取り出して画面を確認する。アカチャネルからの新着チャット通知だ。


 ゾンビ「九郎氏〜、実況をお願いするであります!」

 カラス「問題なし。以上」

 ゾンビ「おほっ、お楽しみ中でありましたか?」

 猿人「ちゃんと働け」

 カラス「テクスチャと遭遇。説明の一環で一体を処理した」


 カラスは写真を一枚アップロードする。暗闇を徘徊する、テクスチャを背後に自撮りをしている九郎と啓介だ。暗くて見えづらいが啓介に九郎が無理矢理身体を寄せており、異様に距離感が近い。彼女はピアスの付いた長い舌を出して、挑発的な表情をしている。


 ゾンビ「エッッッ……! 眼福であります!」

 猿人「気を抜くな。警戒度の低いチャネルとはいえ、深層チャネルで遊ぶと死ぬぞ」

 カラス「写真はどの道必要でしょ。気を抜く程浮かれてもいないとも」


 九郎は端末の画面をスリープさせ、再びポケットにしまう。


「さ、調査続行だよ。出口はもう直ぐだ」


 啓介は少しほっとした反面、まだ何もできていない現状に不安もあった。会社員時代の自分が、一瞬脳内をフラッシュバックする。


『チッ、使えねーな』

『安里さん、俺より年上ですよね? しっかりしてくださいよ』

『今のままだとさあ、君の存在価値ないよ?』


 そんな言葉に脳が煮詰まって視界が塞がっていた啓介の腕を、九郎が掴む。はっと啓介が我に返ると、九郎はいつの間にか彼の後ろにいた。


「啓介くん、ちょっと急ぎ過ぎだよ」

「あ……すみません。ついボーっとしてしまって」

「こんな場所でかね? くくく……随分と剛胆じゃないか!」


 九郎は目を細めて愉快そうに笑っている。その顔が可愛らしく、啓介は随分と心が落ち着いてきた。そのお陰か否か、ぷつぷつとした嫌な雰囲気の乱れを啓介の耳が感じ取り、途端に全身の肌が泡立つ。

 ばっと振り返った先の暗がりから出てきたのは、なんの変哲もない一体のテクスチャだ。変哲がないというのは比喩ではなく、その個体は本当に〈普通の人間そのもの〉だったのである。歩き方にもおかしな部分は見られず、逆にそれが強烈な違和感をもたらしている。


「……〈完成態〉か。そんな天文学的な確率をここで引くかね」

「完成態……?」

「テクスチャは上位存在が戯れに生み出した人間の模造品でね。本来は生命維持活動すらままならない欠陥品だが、極稀に一切の欠陥を持たずに生まれてくる個体が出現するのだよ。それが完成態さ」

「だ、だったらさっきみたいにコーラを使えば――」

「おそらく無理だね。完成態の知能は成人した人間並みだ。過去の事例では、まるで中身を知っているかのように缶を壊さずに対処してみせたらしい」


 完成態は眼球で二匹の獲物を捉え、顔が潰れてしまいそうな程に表情筋を引き延ばす。ぺたぺたと歩き始めた足は、真っ直ぐに九郎達の方へと向かってきた。


「九郎さん、こっちに来てます!」

「テクスチャの役割は、侵入してきた異物の排除だからね。白血球みたいなものさ」

「そんな、どうすれば……!」


 弱音を吐きながらも、啓介は足を踏ん張って懸命に考える。自分の事を信じて連れてきてくれた九郎の為に、どうにかして彼女の役に立ちたかった。


「九郎さん、二手に分かれましょう! 私が囮になります!」


 啓介は九郎のそばから離れ、全速力で走り出す。それも、完成態の横を通り抜けるように前方へ向かって。完成態はその動きに反応し、狙いを啓介へと絞る。


「立ち止まるのも引き返すのも……もう御免だ!」


 啓介の脳裏に焼き付いていたのは、取引先の建物の前で立ち止まる自分自身だった。成果の出ない営業活動が自己肯定感を下げ、人前に出る事に思い込みの恐怖心を植え付けていく。そうして建物の前で行ったり来たりを繰り返す情けない姿を、振り切るようにして啓介は足を動かした。

 だが完成態は走り出すとアスリートにも匹敵する運動能力で、無慈悲に啓介の下へ迫っていく。その光景を、九郎は腕を組みながら眺めていた。


「ふーん。――面白い男」


 獲物を引き裂こうと、完成態は上半身を振り回してミキサー刃のように駆動させる。あと数メートルで刃の先端が啓介の首を刎ねる距離まできたその時。突如その間に、黒い羽根を散らしながら九郎が割って入った。

 彼女がべっと長い舌を出すと、ピアスを起点にその先端がべろんと二つに分かれる。


「気を付けたまえ。ボクはよく


 完成態は咄嗟に狙いを九郎へと切り替え、腕を振るって首を刎ねる。だが鮮血の代わりに噴き出したのは、激しく発泡する砂糖水だった。九郎の身体は羽根となって散らばり、その内側から裂かれたコーラの缶が現れる。完成態は炭酸水を頭から浴び、絶叫しながら暴れ回った。


「知能が高いというのも考えものだね。そうやって藻掻いている間に、何度啓介くんを殺せたのかな」


 九郎が呟く。

 己の役割を放棄して炭酸水から逃れようと暴れていた完成態の身体が、甲高い音を立てて破裂した。チャネル内に起きた異変は無事、取り除かれたのだ。


「い、今のは……?」


 一部始終を目撃していた啓介は、そばにやってきた九郎に尋ねた。


「〈化身タルパ〉と言ってね。ボク達チャネル能力者が持つ、〈固有のエンティティ〉だ。ま、守護霊のようなものだと考えたまえ」


 九郎の腕を覆うように生えた黒い羽根は、手に持ったコーラの缶を包んでワインの瓶へと変える。


「これがボクのタルパ――【解読不能の愛ブラック・チェンバー】。依代となる物体に付着して、その見た目を偽装する事ができるのだよ」

「超能力……? そんな事まで可能だなんて……!」

「この仕事をしていれば、いずれ身に付く技能さ。啓介くん、自分の無力を責めるのは止めたまえ。人は力なんて持たずに生まれてくるのが普通なのだから」

「……私もいつか、皆さんのお役に立てるでしょうか」

「立てるとも。ね」



 表層チャネルへと戻ってきた二人を出迎えた貴光は、九郎に問う。


「九郎、面接の結果はどうだ?」

「合格だよ。啓介くんは出口まで、一歩も後ろに退かなかった。チャネラーとして、最も得難い才能を持っている」

「……だそうだ。良かったな、啓介さん」


 貴光の優しい顔に安堵して、啓介は魂が抜けていくように「ありがとうございますぅ……!」と返事をした。


「さてと、これで面接は終わりだ。啓介さんさえよければ、明後日からウチに来て働くといい。対深層チャネル事案秘密結社――〈入間財団〉へようこそ」


 貴光は封筒に入れた書類を啓介に渡す。それなりに分厚く、中には紙の他に携帯端末も入っているようだった。


「その中に給与待遇や福利厚生やらの、大まかな概要が書いてある。ウチははっきり言って命懸けの仕事だが、その分待遇に不満は言わせないつもりだ。貴方のご家族にも、経済的な面では決して不自由させないと約束しよう。それと、仕事用のスマートフォンを中に同封してある。使い方は追い追い説明するから、一先ずは仕事での連絡に使うといい」


 貴光は扉を開けて廊下へ出ると、隣の部屋へ歩いていく。


「来てくれ。ついでにもう一つ、見せておきたいものがある」


 啓介は九郎に肩を揉まれながら、貴光に続く。

 中央の扉を開けると奥にあったのは、事務所の倍程の大きさがある部屋だった。その内部には無数のパソコンが所狭しと並んでおり、何人もの人間が作業を行っている。


「ここは通称〈サーバールーム〉。アカチャネルの運営と管理を行う部屋だ」


 貴光が中に入ると、作業をしていた人々は口々に挨拶をする。


「皆に紹介しよう。今日からうちの探索班として加わる事になった、安里啓介さんだ」


 貴光が啓介の名前を口にするや否や、サーバールームの最奥で作業に没頭していた人物が頭をがばっと上げる。立ち上がったのは、舞台女優顔負けの美貌を誇る若い女だった。スレンダーな身体を白いシャツと、黒のサスペンダーで留めたベージュのチノパンで包み、長い黒髪を後頭部で一つに束ねている。


「貴光氏! 誰でありますか、その幸薄そうで、そこはかとなくエロい男性は!」

「……マコト、生身の人間に対してそういう言い方をするのはよせ」

「はっ! 失敬でありました! 自分、現在禁欲二日目でありまして、この世の万物にエロティシズムを見出してしまうのであります!」


 マコトはとにかく声が大きい。腹式呼吸が得意で発声が異様にしっかりしているのと、自分の意見を表現する事に絶対的な自信を持っているからだ。


「申し遅れました。自分は解析班の薬袋みないマコトであります! 探索班の方々のバックアップを担当しますので、以後お見知りおきを!」


 マコトの勢いに圧倒されながら礼を返す啓介だったが、それ以上に気になる事が先程から喉の奥から出たがってうずうずとしていた。


「アカチャネルの運営と管理……ここでやってるんですか?」

「そうだ。全国に存在するヤンキは全て、アカチャネルを運営している入間財団の〈フロント企業〉なんだよ。その存在や活動拠点を隠匿する為の隠れ蓑として、全国に展開しているんだ」

「ただのオカルトサイトだと思ってたのに……!」

「俺達が対処する深層チャネルに関する事件の四割近くは、アカチャネルに寄せられた情報を手掛かりに発見されているんだぞ。塵も積もればというやつだな」


 啓介の人生を変えた数々の出来事は、アカチャネルという一本の糸で繋がっていた。世界は案外本当にインターネットのようなものかもしれないと、啓介は思ったのだった。

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