第3話 祟り廃坑の事件簿①

 東京都江戸川区――新代にいしろ町。総武沿線のこの町は、都内でも最も家賃が安い地区として有名である。家賃平均は1Kで五万五千円。都内でも破格と言えよう。そのせいか町の治安は周辺地域と比べて悪く、昨年度の〈都内の住みたい町ランキング〉では圧倒的な最下位に選ばれている。

 駅前には無数の老人達が煙草を手にたむろしており、傍から見れば不気味な光景だ。その中に混じって彼らと談笑に興じる九郎もまた、黒い羽根を首元にあしらったロングコートのシルエットと相まって、沼地に咲く清涼な花の如く異質な存在であった。

 啓介は少し物怖じしながらも、休日だというのにスーツ姿で彼女の下へ近付いていく。


「あの……九郎さん。啓介です」

「おや、来たのだね。それじゃ、早速ホテルに行こうか」


 九郎が煙を吹かしながら宣うと、周囲の老人たちはけたけたと笑い出す。


「こんな朝っぱらから元気じゃのお、九郎ちゃんは」

「気を付けなされよ、お若いの。この娘の魅力は魔性の毒牙や。入れ込めば、金も魂も吸われて破滅するでな」


 自分があらぬ疑いを掛けられている事に気付いた啓介は、慌てて手をぶんぶんと振る。


「い、いえいえ! 私はそう言うのじゃありませんから! ただ仕事上のパートナーとして――」

「おやおや、お前さんの方が金で買われたクチかね」

「そ、そうじゃなくてーッ。九郎さんも変な事言わないでくださいよ!」


 困った様子の啓介を尻目に、九郎は首を軽く曲げて妖艶さを漂わせた顔を老人達に向ける。


「ボクの新しい玩具だよ」


 笑い転げる老人達と別れて、九郎は駅前の商店街へと歩いていく。啓介はその場から一刻も早く立ち去りたい一心で、彼女の後を追った。

 商店街から少し外れて道路沿いに出れば、〈ヤンキ新代店〉が見えてくる。五階建ての縦に細長い建物は三階までが店舗になっており、店内に入れば今日も少ないながらに年配者を中心とする客の姿がちらほらと散見できた。そんな景色を横目に眺めながら、狭い店内に無理矢理配備されたエスカレーターで二人は階上を目指す。

 三階でエスカレーターは途切れ、そこから先は〈関係者以外立ち入り禁止〉の垂れ幕が掛けられた階段を上って向かう。九郎達が目指す事務所は四階にあった。

 階段のそばの扉を開けると、一人暮らしの部屋に毛が生えた程度の狭い部屋が続いており、真ん中に五つのデスクが固めて配置されていた。誕生日席になった一番奥のデスクでは、男が一人デスクトップのパソコンを覗き込んで仕事をしている。


「店長、新人君を連れてきたよ」

「ご苦労。じゃあ、早速面接するか」


 心地の良い、渋めの低音で返事が来る。店長が立ち上がると、かなり体格の良い身体が啓介の目に留まる。ストライプのシャツと黒いパンツも、盛り上がる筋肉に張って苦しげだ。黒縁の眼鏡を掛けた顔もかなりの強面で、オールバックの短い黒髪と立派なもみ上げはゴリラを彷彿とさせるだろう。

 小心者の啓介は店長の威圧的な風貌を見ただけで縮こまってしまった。


「店長の入間貴光いるまたかみつだ。狭い事務所で申し訳ないが、適当なデスクに座ってくれ。簡単な面接をしよう」


 啓介は貴光のそばのデスクに設けられた椅子へと腰掛ける。首元に後ろから九郎が身体を押し当て、ちょっかいを掛けてきた。気恥ずかしいのを我慢しながら、啓介は貴光に履歴書を手渡す。貴光はそれにざっと目を通すと、口を開いた。


「三十二歳……元会社員か。どうしてウチに?」

「お恥ずかしながら、リストラを食らってしまいまして。半ば途方に暮れていた所を縁あって、九郎さんに誘っていただいたんです」

「……九郎に誘われた?」


 貴光はちらりと九郎を見る。彼女は少し目を細めて「分かるでしょ」とでも言いたげだ。


「啓介さん。ウチで働くというのがどういうことなのか、本当に理解できてるのか?」

「え、いや……小売店で働くのは初めての経験なものですから」

「この際其方の経験は大した問題じゃない。九郎が貴方に求めているのは、〈電網探偵〉としての活躍だからな」

「……へ?」


 事前に九郎から「ヤンキの面接に行くよ」と説明されていた啓介は、貴光の言葉に目を丸くする。


「わ、私に務まる仕事なんですか?」

「九郎は素質のある人間しか連れてこない。俺には分からないが、貴方には〈チャネル能力〉の才能があるらしい。ここ最近で、何か不思議な体験をしなかったか?」


 履歴書に不思議な体験を書く欄があったとしたら、啓介は真っ先に錦糸町駅での一件を挙げるだろう。それ以外には思い付かない。


「上手く説明するのが難しいんですが……先日鏡の中に、現実世界には存在しない人間の姿を見ました。でも、その人を鏡の中から救い出したのは九郎さんです。私は何もしていません」

「……確定だな。啓介さん、貴方が見たのは鏡に映る幽霊なんかじゃない。鏡の向こう側へと続いていた、〈裏側の世界〉の入口を覗いていたんだ」


 突拍子もない話に、理解の追い付かない啓介はただ口をぽかんと開けて話を聞く。


「俺達が住んでいる世界の裏側には、チャネルと呼ばれる異空間が隣接していてな。啓介さんはインターネットの仕組みを知ってるか?」

「仕組み……? 検索したら色々な情報が出てくるってぐらいしか……」

「インターネットというのは、〈様々な情報を一つに繋げた巨大な蜘蛛の巣〉みたいなものなんだ。俺達はパソコンやスマートフォンといった端末を使ってその一部を複製し、必要な情報だけを抽出して使っているんだよ」

「へえ……でもそれが異空間と何の関係が……?」

「これは単なる仮説だが、俺達が住んでいるこの世界そのものも、インターネットと同じようなものかもしれないんだ」


 貴光の言葉は俄かに信じ難い。やもすると過激なオカルト陰謀論にも聞こえかねない言説だ。


「少し難しい話なんだが……〈世界ホログラム仮説〉というものがあってな。俺達が見たり聞いたり触れたりしているこの世界は、実際には立体映像ホログラムのようなものなんじゃないかという説だ」

「あ、ありえませんよ……ホログラムと違って、現実世界にあるものはちゃんと触れますし」

「その〈物に触れた〉という感覚すら、デジタル信号のように0と1の羅列によって表現された錯覚に過ぎないとしたら? そうではないと、貴方は証明できるか?」

「え、それはその……」

「物質によって構築されていると思っていた宇宙が実は〈インターネットのような情報の塊〉で、俺達の脳が〈宇宙の情報を感覚という形で出力しているコンピューター端末〉の役割を果たしているんじゃないかという事だ。俺達はその情報によって構築された仮想の宇宙を、〈アカシック・レコード〉と呼んでいる」


 顔に似合わぬ知的で専門的な言葉を羅列し、貴光は畳み掛ける。


「チャネル能力は、全ての人間が持っているものだ。この世界を認識する為の力だからな。だが極稀に、このチャネル能力が異常に発達してしまう人間が現れる。そうなった人間は通常の世界である〈表層チャネル〉の裏側――〈深層チャネル〉の景色が見えるようになってしまうんだ」

「私にそんな力が……?」

「論より証拠だ。貴方に見せたいものがある」


 貴光は立ち上がると、事務所の外へと歩いていく。そして上階へと続く階段を先導し始めた。啓介は九郎に背中を押されながら、貴光の後を追いかける。建物の最上階になっている五階は階段の先に狭い廊下が続いており、その壁には三つの扉が付いていた。貴光は一番左の扉を開く。


「中に入って、見えたものを教えてくれ」


 扉の奥で佇んでいたのは、引っ越してきた初日のように何も無い部屋だ。だが啓介には、正常な人間とは異なる景色が見えていた。


「部屋の真ん中に……奥へずっと続いてる暗いトンネルが見えます……!」

「その通りだ。これは173号チャネルと名付けられた異空間への入口でな。啓介さんにはこれから、九郎と二人でこのチャネルを調査してきてもらう」

「調査⁉ 戻って来られるんですか⁉」

「九郎がサポートするから、命の心配はしなくていい。ただしここへ入る事に意味を与えられるか否かは、貴方次第だ」


 それは暗に、面接の結果がこの調査の成果によって決まる事を示していた。


「……分かりました。やってみます」


 異空間とはいっても、ただトンネルを潜るだけだ。そう言い聞かせ、啓介は覚悟を決める。


「それじゃ、よろしく頼むよ。相棒」


 九郎はそう告げて、何の躊躇いもなく異空間の中へと歩いていく。その姿は一瞬で掻き消え、トンネルの中へと移動した。

「あ、ちょっと!」と啓介は声を上げ、逸れたくない一心で目の前へと飛び込んでいく。一瞬景色が真っ暗になったかと思うと、いつの間にかトンネルの内側を現実として感じられるようになっていた。


「こ、こんな事が……!」


 声は反響し、そこが確かに閉鎖的で奥行きのある空間だと雄弁に語っている。異空間に入ってきた啓介を、九郎は拍手で出迎えた。


「存外度胸があるじゃないか。素質を持つ人間は何人か見てきたけど、自分から扉を潜ったのは君が初めてだよ」

「へ、そうなんですか?」

「考えてもみたまえ。バイト感覚で得体の知れない異空間に足を突っ込む方がどうかしている」

「あ……それは確かに」

「ま、期待通りでもあるのだがね。こう見えてもボクは、君の事をそれなりに買っているのだよ。命知らずはチャネラーの立派な才能だ」

「いや……死にたくはないんですけどね。妻と娘もいますし」

「なら気張りたまえ。先ずはこの調査をこなさなければ、生活の糧も得られないのだからね」


 二人はトンネルの中を歩き始める。壁沿いに小さな電灯が付いており、数メートル先であれば辛うじて状況を視認できた。


「真っ直ぐ歩けば十分程で出口には辿り着ける。その間内部に異常が無いかを調べるのが、ボク達の仕事だよ」

「異空間にこんな人工的な施設があること自体が、既に異常な気もしますが……」

「その調子だ。時に啓介くん、環状七号線の地下にトンネルが掘られているのは知っているかね?」

「ああ……最近見学会があったやつでしたっけ」

「あれは環状七号線近くにある神田川の洪水を防ぐ目的で造られたものでね。実は新代町にある江戸川の流域でも、同じような地下トンネルがかつて計画されていたのだよ」

「それがこの場所って事ですか……?」

「いや、それはあり得ない。江戸川の地下トンネルは、相次ぐ事故によって早々に計画を打ち切られたのだからね。深層チャネルの通る土地に、人間が手を加えてはならないのだよ。そこは忘れられた八百万やおよろずの神々が通る、神聖な通り道なのさ」


 霊の通り道については、アカチャネルを趣味とする啓介にもある程度の知見がある。霊の通り道に建造物を建てようとして祟られるというのは、創作怪談にも頻出のネタだ。


「霊的存在の通り道というのは、決して単なる比喩表現や迷信の類なんかじゃない。……


 前方の暗がりから、ぺたぺたと裸足の足音がする。そこから歩み出てきたのは、全裸で此方に向かってくる不気味な人間の姿だった。

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