八話《副所長と緊急事態》

ぼーっと歩いて、忌子のフロアへたどり着く。

相変わらず動かない忌子を見つめていると誰かとぶつかった。

眼鏡をかけた男性が、鋭い目で睨んでくる。

元々切れ目だから、睨んでいるように感じたのかもしれない。

「あ、小野平さん、すいません。」

小野平、翔太。

この研究所の副所長だ。

そして私がなれなかった異質忌子の担当でもある。

「いえ、私は別に。ですが、今後は周りをよく見るように。」

「あ、はい、、、。」

そう言って、彼は忌子のフロアから出てゆく。

彼は私より二年前に研究所に来た、いわば先輩だ。

元々私の教育係でもあったから、私の今の性格は少し彼に近いかもしれない。

小野平さんの護衛が私に頭を下げ、小野平さんと共に去っていく。

「異質忌子の担当?」

「ええ、そうね。」

「、、、遥香さんは、担当になりたかったのか?」

「いえ、特に?まあなれるのなら、ありがたいけど。小野平さんは私より優秀だから、無理よ。」

そう言うと、秋斗は黙って忌子の方を見つめた。

今日は、忌子の部屋の酸素濃度を薄くしてみたらしいけれど。

忌子はどことなく苦しそうには見えた。

すると、忌子が初めて動いた。

そこに居た私を含めたすべての人間が、固まった。

部屋にあるすべての目が少女を捉える。

光が、彼女の白い肌と髪を照らす。

そして、彼女は立ち上がった。

ふらふらと立ち上がる姿は、まるで舞を舞っているかのように見えた。

そして、ゆっくり、ガラスに一番近い場所に居た研究者に向かって近づく。

研究者の男は震えているが、まるで蛇に睨まれた蛙かのように一歩たりとも動かなかった。

そして、忌子はガラスにぺたりと右手をつけ、何かを呟いた。

分厚いガラスで隔てているはずなのに、少女の声は驚くほど鮮明に聞こえた。

「、、、死んじゃえ。」

と。

たしかに、そう言った時。

男がバタリと倒れる。

悲鳴もあげず、ただ倒れた。

研究者の女が悲鳴をあげたのを皮切りに、フロア内が混乱に包まれる。

今まで、研究員に直接的な被害が来ることなどなかった。

男の研究者の周りを他の研究者が取り囲む。

私は、動けなかった。

あの日の光景を思い出していたから。

あの日、なにがあったのか、はっきりと。

「遥香さん、一旦ここを離れましょう。」

そう言う秋斗自身の顔にも、少し恐怖の色が見えた。

警報が鳴り響き、ガラス全体に暗幕が垂らされる。

部屋が見えなくなる少女は表情を変えることさえしなかった。

私は、酷く冷静だった。

頭の中で、誰かが囁く。

「裏切り者。」

と。

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