第35話 繋がり

 暗闇で目を覚ますと、眼前にはこちらを出迎えるように、淡い玉響が浮いていた。

 この光に会うのはこれで二度目だ。玉響は今も何かを訴えるように揺れている。


「やっぱり……あなたは――」


 言葉は無くとも、それが何を求めているか分かった。目を伏せて耳を澄まし、泣き声のするほうへ足を進めると、程なくして暗闇の中に人影が浮かび上がる。


「……リッカ」


 名を呼ぶと、泣いていた少女が顔を上げる。

 歳は十にも満たないが、彼女に間違いない。

 しかし彼女は辺りを見回すばかりで、こちらの姿が見えていないようだ。


 ここは本来俺たちの意識が在るべき所より、さらに深層にあたる次元。

 魂からも隔絶された、奇跡の代償によって堕とされた者たちの牢獄だ。

 ここにあるのは永劫の虚無。皮肉にも俺が病院で見た地獄によく似ていた。

 けれど俺が救い出されたように、この場所もきっと繋がっているはず。


「……寂しいよな。けど……大丈夫。俺が届けるから、少し待っていてくれ」


 そう呟いて目を伏せると、己の裡から伸びる連理の枝へ意識を集中する。

 思い出すのは――以前、同じ場所で見た光の樹だ。

 あれは全ての命が、聖霊を通して結ばれる場所。

 縒り合された細い枝、そのひとつひとつが、この世界に息づく生命なのだ。


 今なら分かる。あれこそが――聖命樹だ。

 全ての命は繋がっている。

 ならば俺はその枝を手繰り寄せるだけでいい。


 枝に触れた冷たい感触に瞼を持ち上げると、そこは一面の銀世界に変わっていた。

 先程まで少女がいた場所に、彼女は眠るように座り込んでいた。

 彼女の名を呟くと、雪のように白い瞼がおもむろに持ち上がる。


「……どうして……ここに?」

「迎えに……来たんだ」


 その言葉を避けるように、彼女は目を逸らしながら独り言ちる。


「マイナデスに取り込まれたせいでしょうか。ここは……御柱に繋がっています」


 ややあってから、彼女は拒絶の意を示すように瞼を伏せながら言葉を続ける。


「……帰って下さい。私はここで儀式を行います」


 心を閉ざす彼女に、俺はひとつ疑問を投げかける。

 予想が正しければ、これが鍵だ。


「リッカの親父さんは、本当に儀式を行うことを望んでいたのか?」

「何を……言ったでしょう。本人の口から聞いたと」

「話を聞いたのは、事件が起きる直前だったんだよな? 本当に、最後まで聞いたのか?」


 彼女は微かに眉を顰めるが、しかし思い当たる節があるのか口は引き結んでいる。


「ひとつ、腑に落ちないことがある。どうして、結界は今まで無事だったんだ?」


 リッカは怪訝そうだが、話を聞く気はあるのか促すようにこちらを見据えている。


「結界は十年前に消失し、そしてすぐに復活した。それはリッカが儀式を行ったからだと思われていた。けどリッカがこうして無事な時点で、それはおかしいだろ?」

「……機能が一時的に停止していただけでは?」

「いや、そもそも御柱は、十年前の時点で寿命を迎えていたはずなんだ」


 その根拠は、儀式の仕組みそのものにある。


「儀式が秘匿されているのは、その内容が倫理に反しているからだ。教会としてもリスクを伴う儀式の回数は無暗に増やしたくない。だとしたら儀式は寿命を迎える直前に行われるはず」


 そう考えると、もうひとつの疑問が浮かんでくる。


「だったら何故、今日まで無事だったのか。十年前に術式が組み直されていなければ、とっくに寿命を迎えていたはずの結界が。その理由は単純――十年前に儀式は行われていたんだ」

「ですが……巫女は私しかいなかったはず――」

「結界の寿命は二十年なのに、今回は十年しかもたなかった。虚殻に寄生されたにしても短すぎると思わないか? つまり今回は適性のない者――巫女ではない誰かが儀式を行ったんだ」


 紡がれていく可能性に、リッカの瞳が微かに揺れる。

 彼女の中にも予感があるようだ。


「それが本当だとすれば……一体誰が――」

「……自分の目で確かめたらいい」


 その言葉に彼女が振り返ると、そこには初めから存在していたように玉響が揺れていた。以前より輪郭がはっきりしたのは、きっと御柱に接続しているためだろう。


「その光が、リッカのところへ導いてくれたんだ」


 玉響を前に、珍しく躊躇いを見せるリッカ。やはり彼女も――


「――本当はもう、気付いているんじゃないのか?」


 十年前――儀式を行おうとしたリッカを止め、代わりに儀式を行った人物。


「父上……なのですか?」


 しかし玉響は僅かに揺れるばかりだ。

 十年間――聖霊の器として在り続け、きっと人間性などほとんど残っていないだろう。にも拘わらず、娘を助けるために俺をここへ導いた。


 きっと彼も先生と同じだったのだろう。

 偽りの家族を――それでも愛した。


「父……上……」


 リッカが手を伸ばすと、玉響もそれに応えるように瞬く。

 指先が触れた瞬間、光は綿毛のように解けて消えた。

 まるで――その役目を終えたかのように。


 そこに生まれた微かな共鳴。

 その声は――リッカに届いたのだろうか。

 彼女は指先に残る熱を抱きしめるように、胸元で両手を握りしめた。


「やはり……何も感じません」

「それは、違う」


 彼女の父が残したものを繋ぎ止めることが、今の俺にできる精一杯だ。


「心が欠けても、無くなる訳じゃない。欠けた心に、触れられなくなっているだけなんだ」


 それは図らずとも、両親が気付かせてくれた、ひとつの仮説。

 奇跡の代償とされる心の欠落。六情花の散華――その仕組み《システム》。


「俺も最初は忘れてしまったら、それは無かったも同然だと思っていた。けど思い出をなくしても、想いは変わらなかった。両親から受けた愛情は、俺の中に生きていた」


 そもそも人は忘れながら生きるものだ。

 何十年と共に過ごしたとしても、覚えていることは一パーセントにも満たない。

 それでもその関係を大切に思えるのは、記憶より透明な、けれど淡雪のように美しい何かが心に降り積もっているからだ。


「聖霊は奇跡の代償として、心の繋がりを絶つ。けれど心そのものを消すことはできない」


 六情花の散華とは、心の断絶。

 しかし繋がりを断たれても――心は消えていない。


「記憶がなくなっても、感情がなくなっても、無かったことにはならない。例え今は触れられなくても、心は――両親との繋がりは――リッカの中で生きている。だから、俺が……」


 そう呟きながら、目を伏せて意識を集中させる。

 連理の枝は、繋ぐ力。

 この力が俺に中にあるのも、きっと何か意味があるはずだ。


 再び瞼を持ち上げると、目の前のリッカに、幼い彼女の姿が重なった。

 泣きじゃくる少女と、抜け殻の女性。リッカの心と、リッカの身体。


 二人は同じ場所にいるのに、互いを認識できていない。

 これが――今の彼女だ。


 心と身体が乖離した彼女は、泣くことも、笑うこともできない。

 けれどそれは表に現れないだけで、心は確かに彼女の中で生き続けている。


「――リッカ」


 名を呼ぶと、二人の彼女と視線が交差する。


「俺が、リッカの心と世界を繋ぐ――架け橋になる」


 そう言いながら手を差し伸べると、二人のリッカは躊躇いがちに手を取った。

 その刹那、幼い彼女が何かを見つけたように瞠目すると、顔を綻ばせながら溶けるように消えていった。

 ひとつになったリッカは、噛み締めるように目を伏せると――


「私は……父に……愛されていた」


 そう呟きながら、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

 濡れた瞳が、星のように瞬く。


「何も感じない……はずなのに……。どうして……」


 一片ひとひらの雪がリッカの目尻に落ちると、一筋の雫となって頬を伝った。


「どうしてこんなにも……苦しいのでしょうか」


 瞳に浮かぶ花弁がひとつ、涙に溶けるように消えていく。

 頬を伝う雫が落ちた瞬間、そこから波紋が広がるように、一面の雪原が花畑に変わっていく。


厚い雲が吹き飛ぶように空が広がり、満天の星の下に、純白の六花が咲き誇った。


「リッカ……!!」


 俺は思わず彼女の身体を抱き寄せる。彼女の顔を見るのが憚られたのか、或いはこちらの泣き顔を見られたくなかったからかは、自分でも分からなかった。


「……私は……」


 そう呟いて、彼女は思い出したように小さく息を吸うと、


「どう生きるべきなのかも……分かりません。きっとたくさん……迷惑をかけると思います」


 僅かに言葉をつかえさせながら、こちらの背中に手を回して、優しく抱きしめ返した。


「そんな私でも……生きたいと願って……良いのでしょうか……?」


 その言葉に呼応するように、連なる二つの枝がその輝きを増し、光の奔流が巻き起こる。


「……ああ。一緒に生きよう……この世界で――」


 俺は暖かな光に身を委ねながら、真っ白な世界の中で――彼女の笑顔を見た気がした。

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