第34話 メッセージ

 ピッ――ピッ――ピッ――


 暗闇の中に生まれたのは、規則的な機械音と鼻をつく芳香剤の香り。

 これは夢か。それとも……今まで見ていたものが夢だったのだろうか。

 いや、そんなはずがない。そう否定しようとした矢先、全身に激痛が走る。

 まるで背中の肉が腐ったように、鼓動に合わせて疼くような痛みに襲われる。

 思わず漏れた呻きは音にならず、もがいたところで指先ひとつ動かない。


 ――誰か――助け――

 

 その時、遠くから扉の開く音と共に、聞き慣れない声が近づいてくる。


「……聞いた? ここのご両親、見舞いにも来ないと思ったら、養子を貰ったそうよ?」


 痛みすら掻き消すほどの衝撃に耳を疑うと、追い打ちをかけるように言葉が続く。


「植物状態の息子を見捨てて新しい家族を、かあ……。確かに薄情だとは思うけど、自分だったらって思うと、正直――否定はできないわね」


「この子も不憫ですよね。生きながらにして親にまでその存在を否定される。ある意味死ぬよりキツイ生き地獄なのに、自分で死ぬこともできないなんて――」


 その声も遠く朧げになっていき、独り取り残されたのは、地獄だった。


 ――どうして……。嫌だ――嫌だ……嫌だ……。


 閉ざされた未来と全身を蝕む激痛に、いっそ正気を失ってくれと懇願する。


 ――誰か――誰か……。


 祈りは虚しく虚空へと消え、心が絶望に染まるまで時間はかからなかった。


 ――誰か俺を……殺して――

 

 ――――


 ふと、微かな音が生まれた。

 泡沫のように儚く響いたそれは、すすり泣く声。

 それは暗闇の中で星のように瞬き、磨り潰された自我が無意識に手を伸ばす。

泣いているのは……誰だ?


 暗闇に朝日が昇るように、ぼやけた視界が僅かに開ける。視界の端では、水槽を突き破って這い出した虚殻の触手が、紅い何かを絡み取っていた。


 それは人の形をした結晶。

 ルビーのような氷塊の中に、シンシアさんの影が浮かんでいる。

 そしてどうやら、自分も同じ状況のようだった。眼下の床は遠く、身体は氷と触手に囚われ、視界は今まさに紅く浸食されつつあった。


「……もうすぐです。ようやく、全てが終わる」


 先生はマイナデスを見上げながら、噛み締めるようにそう呟いた。

 その刹那、巣穴に侵入された獣のように、彼は素早く背後を振り返った。


「……誰かいるのですか?」


 そう呟く彼の瞳は抜け目なく細められているが、その視線の先には何もない。

 しかし直後――張り詰めた空気を裂くように、休眠していたモニターから音と光が生まれた。


「マスターコード承認。識別番号AA002――メッセージを再生します」


 合成音声に続いて画面が自動で切り替わる。モニターには何らかの映像が映し出されているようだが、ノイズと砂嵐でよく分からない。そのまま数秒後――


「おはよう……ナツ。久しぶり……と言うべきだろうか」


 モニターから響いてきたのは、やや硬い口調の男性の声だった。

 聞き覚えのないはずのその声に、何故だか心がひどく騒めいた。


「このメッセージを見ているということは、既に聞かされていると思う。ナツの身体と、この世界に起きた事を。信じられないかもしれないが、その話は本当だ。

ナツが眠っている間に、世界は大きく変わってしまった。

 本来であれば私たちが直接説明すべきだが、これを見ているということは、何らかの理由でお前のそばに居られなくなってしまったということだ。

 だから、まずは済まない。親としての責務を最後まで果たせなかったこと、お前を独りにしてしまったこと、その未来を見守れないこと……不甲斐なく、そして心残りに思う。

 それでも、優しいお前のことだ。こんな私たちのために心を痛め、むしろ自分を責めることがあるかも知れない。そんな優しさはときに心配で、同時に誇りに思っていた。

 お前は自慢の息子だ。ナツのおかげで私たちはいつも、幸せだった。

 本来であればこんなことを言う資格はないのかも知れない。それでも、言わせて欲しい。

 ナツ――ありがとう。私たちの下に生まれてきてくれて、本当にありがとう」


 俺は、何も言えずにいた。もう二度と会えず、そして思い出すこともできない父親からのメッセージ。驚愕、困惑、疑問、そして――心を揺さぶる熱い何か。

 あらゆる感情が嵐のように渦巻き、乾いた喉を詰まらせる。ノイズが酷くて顔は見えないが、父親は隣に座る人物に促すような仕草を取ると――


「ナツさん、私からもお礼を言わせてください。仕事に追われて独りにしてしまうことも多かったけれど、それでも優しく出迎えてくれるあなたに、いつも救われていました。

 これからはその優しさを、今の貴方のそばにいる人に向けてあげて下さい。そうすれば貴方が本当の意味で独りになることは、決してありません。

そして貴方が誰かに与えた幸せ以上に、貴方自身が幸せになることを願っています。

そして、もしも願いがもうひとつ叶うなら……生まれ変わっても、また貴方の親になりたい。

 私たちの宝物――私たちの希望。どうか幸せに、生きてください」


 僅かな間を置いて音声が途切れると、モニターは再び沈黙した。


「……父……さん……母さん……」


 そう呟いた瞬間、心の中で何かが決壊した。

 頬を熱いものが伝い、必死でモニターへ手を伸ばす。


「――父さん!! 母さん!!」


 忘れてしまった人たちからの言葉に、どうしてここまで心揺さぶられるのだろう。何かを思い出した訳ではない。今だって顔も名前も分からない。

 それなのにどうして、こんなにも苦しく、愛おしいのだろう。


 こちらの動きを反抗と捉えたのか、触手が拘束を強めながら本体へ引き寄せる。

 肺から酸素を絞り出されながら、離れていくモニターへ尚も手を伸ばす。

 しかしどんなに願ったところで、この手が届くことは――二度とない。


『――その優しさを、今のあなたの傍にいる人に――』


 その刹那、リフレインしたのは、母親の言葉だった。

 この手が両親に届くことはない。けれど今の自分にも、届くものがあるとしたら――ならば手を伸ばすべきは、あちらではない。


「父さん、母さん……ありがとう……」


 未練を断ち切るように拳を握り締めると、己の胸に手を当てる。

 耳を澄ますと、すすり泣く声は、今も胸の奥から響いていた。

 摩耗した心に火が灯り、呼応するように蛍色の寂光が溢れ出す。

 マイナデスの冷たい口腔へ飲み込まれながら、しかし恐怖はなかった。


 人は皆、見えない路で繋がっている。

 大樹のように枝葉を伸ばし、必死に命を咲かせている。

 その繋がりは決して枯れることはなく、距離も時間さえも別つことはできない。


 俺は独りじゃない。祈るように、心の中で言葉を紡ぐ。

終天開花ネツァク・キャスト――連理の枝』

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