第33話 悪魔

『……あなたが傷付くのは……見たくない……』

 そう言い残して、彼女の意識は眠るように沈黙した。


 その言葉が――炎を灯す。


 ――考えろ。


 意思の炉に火をくべて、思考のエンジンをフル回転させる。

 二人を救いたければ思考を止めるな……!! 考えろ、考えろ――


 俺に戦い方を伝授したのは、他でもない先生自身だ。

 こちらの手の内は全て知られている。ならば既存のカードで戦っても勝機はない。

 一矢報いるには、彼の想定を超える何かが必要だ。

 彼が知らない。俺すら知らなかった何か――理解できなかった何か。


 その刹那、脳裏を過ったのは十数分前の出来事。

 俺とリッカだけが遭遇した事象。


 ――どうして……メレーは発動した?


 当時は深く考えず、シンシアさんが遠隔で発動したものだと思っていたが、時系列を考えれば、あのとき彼女は既に楔を打ち込まれていたはずだ。だとすれば――


 ひとつの予感が手中に落ちる。活路と呼ぶにはあまりに細く、希望と呼ぶにはあまりに儚いが、この手の先に未来があるならば――踏み出すことに迷いはない。

 掲げた右腕を霊力の路が走り、集束した霊響が掌上に幽玄の蕾を描き出す。


終天開花ネツァク・キャスト――靄然あいぜん


 その声と共に蒸気の煙幕が拡散し、両者の視界を閉ざした。

 俺は床を蹴りながら意識を集中させて、先生の霊響から位置を割り出す。

 しかし――それは逆もまた然り。


「破れかぶれの特攻ですか?」


 白煙の奥から、背後に回ったはずのこちらを見据える声が聞こえる。

 この煙幕そのものに意味はない。術師にとって霊視は生命線――熟練であるほどその感知能力は高く、咄嗟の状況では頼みの綱となる。例えそれが、罠だとしても。


 俺は胸の内にあるものを、霊力の流れに乗せて左腕へ転送する。腕を大砲として捉え、そこへ砲弾を装填するように、大量の霊力を流し込んでいく。


 俺の聖霊術、連理の枝は――共有。

 他者の術を己へつなおさめる力だ。


「連理――解放――ッ!!」


 左腕に装填されたメレーにありったけの霊力を注ぎ込み、暴発させる。

 巻き起こる霊響の波濤。情報の洪水は、ほんの一瞬だが、相手の霊視を攪乱する。

 言わば霊力のスタングレネードだ。


「――!?」


 白煙の奥から響く驚愕の声。

 こちらはリッカとの接続を切ることで霊視を一時的に遮断したが、相手はもろに受けたはずだ。視覚と霊視を一度に奪われたことで、流石の先生にも隙が生まれ、闇雲に振るわれた篭手を躱しつつ腹部へ掌底を叩き込む。


 吹き飛ばされた先生は空中で身体を捻り、膝を突きながらも何とか着地した。

 スタングレネードとは言ったものの、仕組みはあくまで幻視――その効果は数秒と保たないだろう。

 現に先生は体勢を立て直し、その双眸はこちらを真っ直ぐに見据えている。


「……驚きました。シンシアさんの術を借りた、霊響の目くらましとは」


 しかしその瞳に浮かぶのは、この程度か――という微かな失望と疑問。


「ですが、それだけでは――」


 ――と、そこで彼は違和感に気付く。

 手中から消えた聖霊術の感触。

 そして、己の腹部に突き立てられた光の柱に。


「――はは」


 その一瞬で全てを察したのか、彼は初めて声を零して笑った。

 そう――初めから一手で、一人で覆せる相手だとは思っていない。だからこそスタングレネードは二重の目くらましで、本命は燔祭の楔こっちだ。


 触れようとした先生の指先から、楔が宙に溶けていく。

 今の俺では先生の聖霊術――使命を長く持続させることはできない。

 けれど、一瞬で十分だ。

 彼に打ち込んだ使命は、リッカに打ち込まれたものと同じ、聖霊術の使用禁止。


「俺ひとりでは先生に太刀打ちできません。けど――」


 一瞬でも術を禁止するということは、即ち発動しているものも停止するということだ。


「リッカを救うのは、俺じゃなくていい」


 直後、背後から飛来した光の矢が、交差した篭手を抉り穿つ。

 楔から解放されたシンシアさんが前に歩み出ると、背中越しに言葉を作る。


「……ありがとう。君がいてくれて、本当に良かった」


 彼女はあえて表情を見せまいとするように、前を向いたまま弓を引き絞る。十年近い付き合いのある二人。そこで交わされる想いは想像もつかない。


終天開花ネツァク・キャスト――木漏れ日の矢クリパスキュラ・レイズ


 しかしその言葉に、躊躇はなかった。

 訓練とは明らかに異質な殺意の結晶が降り注ぐ。

 先生は篭手と義足を駆使して回避を試みるが、まさに雨を躱すようなものだ。避けきれなかった矢が次々と四肢を裂き、不快な焦げ臭さが立ち込める。


 先生の能力は確かに強力だが、双方共に中近距離でこそ真価を発揮する。

 遠距離からの範囲攻撃を持つシンシアさんとは、その実力差を覆して余りあるほどに相性が悪い。


 こうなれば神の義肢が齎す無尽蔵の体力も意味を成さない。不意打ちさえされなければ、距離を取って攻撃を続けるだけで容易に制圧できてしまうのだ。


 先生は生傷が生まれる先から治癒していくが、それも追い付かない。誰が見ても圧倒的な戦況――にも拘わらず、当の本人は満身創痍のまま笑みを浮かべている。


 それしかできないと言ってしまえばそれまでだが、俺は何故かそこに薄ら寒いものを覚えていた。同じものを感じ取っているのか、追い詰めているはずのシンシアさんからは焦りにも似た気配を感じる。


 そのとき、ふと――どこからか鼓動のような霊響が生まれた。


 交戦中の二人が同時に視線を動かした先――水槽の中で眠るマイナデスの身体が、孵化直前の蛹のように蠢いた。浮かぶ疑問と同時、マイナデスの身体に刺さっていた楔が消えていることに気付く。先ほどシンシアさんを解放した際に、同じくマイナデスの封印も解いてしまったのだ。


「私はまだ……人間でありたかったのかも知れません。娘と同じ……人間に」


 ふと、先生が口端から血を流しながら、懺悔するようにそう呟いた。


「全く……烏滸がましいことこの上ない。罪のないあなた方を巻き込んだ時点で、私は娘を貶めた者たちと同類だったのに。心など、疾うに捨てたはずなのに」


 そう呟いた直後、先生の身体を中心に嵐のような霊響が巻き起こった。周囲の聖霊が一斉に絶叫したような衝撃が脳裏を打ち、景色が歪むほどの眩暈に膝を突く。


「人としての道に悖り、安寧など望むべくもない。この祈りに救済はなく、この命に価値などない。それでも娘を救うためならば、この魂ごと……罪業の路へ堕ちましょう」


 先生はそこで僅かに眉尻を下げると、名残惜しげに「これが最後の試験です」と呟いた。


「今からお見せするのは、二つのセフィラが交わる狭き路にして、神秘へ至る秘跡アルカナ


 再び開かれた彼の瞳が夜を掬ったような漆黒に染まり、その中心には栄光ホドの橙色と荘厳ティファレトの金色が混ざり合う、天より堕ちた明星のような輝きが灯っていた。


「この世界は正しき者が救われない――ならば勝つのは私です」


 その背中から硬質な音と共に朱殷の結晶が生え、左右六対――翼のように鈍く煌いた。


「二重開花――」


 霊響の嵐は泥のように濃度を増し、そこに在る全ての命を飲み込んでいく。

 その中心――異形と化した先生が血の涙を流しながら、魂魄を蝕む聖霊へ祝詞を奏上する。


悪魔の秘跡ディアボルス・アイン――悲嘆の氷河コキュートス

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